概要
所属国 | アメリカ合衆国 |
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出生日 | 1911年2月6日 |
死亡日 | 2004年6月5日(93歳) |
出生地 | アメリカ合衆国 イリノイ州タンピコ |
死亡地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス |
所属政党 | 共和党(以前は民主党) |
出身校 | ユーレカ大学 |
宗教 | キリスト教カトリック |
配偶者(2004年6月時点) | ナンシー・デイビス |
子女 | 5人(前妻の子供・養子も含む) |
その他 | 陸軍の軍人として勤務(1937年4月 - 1945年12月) |
ロナルド・ウィルソン・レーガン(英語:Ronald Wilson Reagan、1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の政治家。第40代アメリカ合衆国大統領。選出された時の年齢がドナルド・トランプに次いで歴代第2位(69歳349日)の大統領であり、歴代の大統領で唯一離婚歴した事がある。映画俳優から上がってきたという異色の経歴を持っており、その演技と演出の能力は自身の大統領選挙で非常に強みとなった点はヨハネ・パウロ2世とも似ている。
経歴
初期
1911年2月6日にイリノイ州タンピコにて、2人兄弟の次男(第2子)として誕生した。1932年6月にユーレカ大学を卒業した後、アイオワ州ダベンポートにてスポーツ放送記者としての勤務を開始した。1937年6月にカリフォルニア州ロサンゼルスに移ってそこで有名な映画俳優になり、1947年3月から1952年11月まで映画俳優組合の会長(1959年11月から1960年6月まで再び在任)を務め、1954年9月にゼネラル・エレクトリック・シアターという番組の司会者としてデビューした。
2度の大統領選挙
1964年アメリカ合衆国大統領選挙での選択の時という演説により、自身は新たな保守派の人物として注目を集めた。1967年1月にカリフォルニア州知事に就任し、在任中は増税を実施して財政赤字を黒字へ転換させた一方で、大学の抗議活動を厳格に取り締まった。1976年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党の予備選挙で現職のジェラルド・フォード大統領に挑戦して敗北した。
1980年アメリカ合衆国大統領選挙
1980年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党の大統領候補として正式指名され、副大統領候補にジョージ・H・W・ブッシュ元中央情報長官を選択した。民主党のジミー・カーター大統領とウォルター・モンデール副大統領のペアと一戦を交え、489人の選挙人を獲得して見事に圧勝し、共和党の候補が一般投票と選挙人投票の両方で民主党の現職候補を破った唯一の選挙となった。
大統領
1期目
1981年1月に大統領に就任し、演説ではアメリカの経済不況について語り、同年2月に経済の再生を目指して経済政策の大幅な転換を内容とする経済再生計画を発表した。同年3月に暗殺未遂事件で一命を取り留めた他にも、公共部門の労働組合との闘争と麻薬戦争の拡大があり、同年6月にアメリカでエイズが流行した時は対応が遅れた。一方で軍拡競争をエスカレートさせ、冷戦政策をソ連との緊張緩和から転換し、1983年10月にグレナダに対する軍事侵攻を命令した。
1984年アメリカ合衆国大統領選挙
1984年アメリカ合衆国大統領選挙では再選を目指して出馬し、副大統領候補は引き続きジョージ・H・W・ブッシュ副大統領とした。本選挙では民主党のウォルター・モンデール前副大統領とジェラルディン・フェラーロ連邦下院議員のペアと一戦を交え、525人の選挙人を獲得して再び地滑り的に勝利し、候補者が獲得した選挙人の票としては最も多かった。
2期目
1985年1月に2期目の大統領に就任し、同年2月に一般教書演説でソ連による世界的な影響力を圧倒する為、レーガン・ドクトリンという外交戦略を宣言した。政権の2期目からは内政よりも外交問題が中心で、特にイラン・コントラ事件(1985年8月)、リビア爆撃(1986年4月)、イラン・イラク戦争の介入(1987年7月)、中距離核戦力全廃条約の締結(同年12月)などがあった。
退任
1989年1月にドワイト・D・アイゼンハワー以来28年ぶりに、2期8年の任期を満了して大統領を退任し、自身の政策は東西冷戦を終結したと共にソ連の共産主義を終焉させる事にも貢献した。1994年8月にアルツハイマー病と診断され、同年11月に手書きの手紙でこの事実を発表した。2004年6月5日にロサンゼルスの自宅で、アルツハイマー病を合併した肺炎によって93歳で死去した。
外交
レーガン・ドクトリンと呼ばれる基本方針を打ち出し、それまで比較的緩やかな関係に落ち着いていた。この時代はアジア・アフリカ・ラテンアメリカでソ連の支援を受ける共産主義政権から巻き返す努力を果たし、反共ゲリラやレジスタンス運動に対する公然・非公然の支援活動を実施した。
ソビエト連邦・その他
1983年3月にソ連を悪の帝国と直接的に批判して刺激し、同月にテレビ演説で戦略防衛構想という計画を発表した。その際にそれまでの軍拡競争で疲弊し始めてきたソ連に脅威を与えた上に、宇宙開発競争などを煽ってソ連の財政状況を悪化させて崩壊に追いやった。その他に反共運動を積極的に支援し、ベルリンの壁の崩壊と多くの東ヨーロッパ諸国の民主化を達成した。
日本
1970年代に日本との貿易摩擦が表面化した時は、アメリカ国内の保守派・大企業・組合などからの圧力を受けて一貫して強硬姿勢を取り続けた一方で、日本をアメリカの安全保障上欠かす事のできないパートナーとして重視した。1983年11月・1986年5月・1989年5月に現職の大統領としては最も多い3度も日本を公式訪問し、特に中曽根康弘総理とはロン・ヤスとして友好関係にあった。
ソ連に対する強硬路線は日本との同盟関係にも影響を与え、レフチェンコ事件(1982年12月)・大韓航空機撃墜事件(1983年9月)など、冷戦時代に北東アジアで発生した事件では日本と共同歩調を取った。その他に極東アジアに対する軍事プレゼンスを高める為、青森県三沢市にある三沢基地に当時は最新鋭の戦闘機であったF-16型戦闘機の飛行隊を配備するなど、日本を含む極東アジアに陸軍・海軍・空軍・海兵隊を合わせて14万人の兵力を展開した。
冷戦を終結させた大統領
前に述べた外交での行動から「冷戦を終結させた大統領」と言われており、実際に東西冷戦の終結を正式に宣言したアメリカの大統領は、1989年1月にレーガンの後任となったジョージ・H・W・ブッシュである。しかしあらゆる政策で終結の宣言とソ連の崩壊を導き出したのはレーガンである為、本当に東西冷戦を終結させた大統領はレーガンと言うべきであろう。
配偶者
ジェーン・ワイマン
1940年1月にジェーン・ワイマンと結婚し、1941年1月に長女のモーリーン・1947年6月に次女のクリスティーン(未熟児で誕生して翌日に死亡)が誕生した後、1945年3月に1人息子のマイケルを養子にした。1948年6月にワイマンはレーガンとの離婚を申請し、1949年7月に離婚が成立した。
ナンシー・デイビス
1952年3月にナンシー・デイビスと結婚し、1952年10月に長女のパティ・1958年5月に長男のロンが誕生した。ナンシーは夫が大統領に就任してからはファーストレディとなり、2004年6月に死去するまで同居し続け、その後は特に幹細胞研究に関連して政治活動を続けていた。
逸話
バック・トゥ・ザ・フューチャー
映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の中で1955年へマーティがタイムスリップし、その時代のドクから「1985年の大統領は誰だ?」との質問に「レーガンだ」と答えると「レーガンだって?あの大根役者の!?それじゃあファーストレディはジェーン・ワイマンか?」と揶揄するシーンがある(その少し前に、出演者として、レーガンの名前がある映画『バッファロー平原(Cattle Queen of Montana)』のポスターが映り込むという伏線もある)のだが、当の本人は怒るどころかそのシーンが大のお気に入りだったらしく、何度も巻き戻しては観ていたという。
それどころか、レーガンは後に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と絡めた一般教書演説も行っており、シリーズそのものを非常に気に入っていたことが窺える。
暗殺未遂事件
1981年3月に暗殺未遂事件で重傷を負って入院したが、手術を担当する医師にジョークで「君たちがみんな共和党員だといいのだがね。」と言い、医師も「私たち(担当スタッフ)は皆共和党員です。」といって皆で笑った(実際にその医師は民主党員)という重傷にあってもジョークを忘れないタフネスぶりを披露してもいる。またこの暗殺未遂の生還から、それまでの西暦の下1桁が0の年に当選した大統領は酷い最期を遂げるとされるジンクスであるテカムセの呪いを断ち切った。
アルツハイマー病について
発症
アルツハイマー病を発症した時期については明確な事は分かっていないものの、関係者の証言から在任中の末期には既に発症していたとも言われている。ナンシー夫人は自宅の彼の部屋を大統領執務室風に改装し、新聞を読むなどの仕事をさせて在任中に近い環境を維持する事で症状の軽減に努めたという。
手紙
1994年11月5日に国民に宛てた手紙の中で「私は今、人生の黄昏へと至る旅に出かける。」と述べ、これが公の場で発した最後のメッセージとなってしまい、それ以降は人前には出ずに自宅で静かに療養生活を送っていたとされる。それでも病魔は徐々に彼の体を蝕んでいき、2001年1月に自宅内で転倒して腰骨を骨折して寝たきりとなってからその病状は更に悪化していった。
余談
- レーガンの功績は多くの人々に讃えられ、名前が空港・空母などに使われている。
- タカ派として知られたレーガンだが、それらは全て演技であり、実際は「軍拡と核兵器による世界秩序が健全であるはずが無いと考えていた。」と後の側近は語っている。
関連タグ
ドナルド・カーチス:紅の豚に登場する飛行機乗りで、レーガンがモデルになっている。