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概要

ロナルド・ウィルソン・レーガン(英語:Ronald Wilson Reagan、1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の政治家。第40代アメリカ合衆国大統領。選出された時の年齢がドナルド・トランプに次いで歴代第2位(69歳349日)の大統領であり、歴代の大統領で唯一離婚歴がある。俳優の出身という異色の経歴を持っており、その演技と演出の力は自身の大統領選挙で非常に強みとなった点はヨハネ・パウロ2世とも似ている。

元々二流の西部劇俳優であった為、「大統領の役を最も上手に演じる二流役者」と揶揄されたこともあったが、演技力や演出力の必要な局面では見事に成果を残しており、任期を通じて支持層を中心にそのユーモアにあふれた言動は人気を得ていた。特に本人の演技力とアメリカ政府の人材と資金による演出で、当時のソビエト連邦を軍拡競争と宇宙開発競争のチキンレースに巻き込んで崩壊へ追い込んでしまったのは有名である。

経歴

初期

1911年2月6日にイリノイ州タンピコに誕生した。レーガンの家族はモンマス・ゲールズバーグ・シカゴなど、イリノイ州のいくつかの町・都市に短期間居住した。1919年8月に家族と共にタンピコに戻り、1920年6月にイリノイ州ディクソンに定住するまで、HCピットニー・バラエティ・ストアの上に住んでいた。1928年9月にイリノイ州のユーリカ大学に入学し、1932年6月に経済学と社会学を専攻して卒業した。同年12月にラジオ局のスポーツアナウンサーとして雇用され、1933年4月にチーフ・スポーツ・アナウンサーとしてアイオワ州デモインに移って多くの視聴者を獲得した。

軍人時代

1937年4月に陸軍下士官予備隊に入隊し、同年5月に騎兵隊の将校予備軍団の少尉に任命された。同年6月に映画のキャリアを始める為にロサンゼルスに引っ越したばかりのレーガンは、将校委員会を受け入れて第323騎兵隊に配属された。1942年4月に現役の任務に就くよう命じられたが、視力が悪いので海外での勤務を除く限定された勤務のみに分類された。レーガンの最初の任務は、カリフォルニア州フォート・メイソンにあるサンフランシスコの乗船港で、港湾運輸局の連絡担当官であった。

1942年5月に陸軍航空隊の要請によって騎兵隊から陸軍航空隊への異動を申請し、この異動は6月に承認された。レーガンは陸軍広報隊の広報に配属され、その後はカリフォルニア州カルバーシティの第1モーション・ピクチャー・ユニットに配属された。1943年1月に中尉に昇進して暫定タスク・フォース ショー・ユニットに送られ、この任務の後に第1映画部隊に戻って同年7月に大尉に昇進した。

1944年1月に第6回ウォー・ローン・ドライブの開設に参加する為、ニューヨーク市での一時的な勤務を命じられた。同年11月にカリフォルニア州カルバーシティの第18陸軍航空隊の基地部隊に配属され、1945年9月に除隊された。

俳優時代

元々レーガンはラジオアナウンサー出身の映画俳優であった。映画俳優としては前述したように2流の西部劇スター止まりであったが、生来スピーチの才能があったレーガンはラジオアナウンサー・司会者としてキャリアを積む中でこの能力・話術・演説の技能を磨いていき、ディズニーランドの開園を伝えるニュースも担当していたりする。この頃から赤狩りにハリウッドにおける内部告発者として積極的に協力したり、共産主義や大きな政府志向の政策に反対するキャンペーンに参加するなど保守派としても知られていた。

政界

1964年アメリカ合衆国大統領選挙での共和党の大統領候補であったバリー・ゴールドウォーターの応援演説で一躍し、名演説家としての評価を確立して政界入りする。所属政党は当初民主党であったが、1962年秋に共和党に転じ、保守派の中心人物となる。ゼネラル・エレクトリックがタービンを納めているテネシー川流域開発公社に反対し、「ゼネラル・エレクトリック・シアター」のパーソナリティーから降板させられた。

カリフォルニア州知事時代

1967年1月に第33代カリフォルニア州知事に就任し、1975年1月まで同職にあった。レーガンの自由主義者としての顔は、州知事時代に実施した政策に如実に現れている。

例えば州議会で「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける。」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為どれだけ危険か分かって乗っているはずだ。ならばヘルメットの着用などという事は個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要は無い。」というものだった。その後カリフォルニア州では、1992年1月にヘルメットの着用が義務化された。

当時激戦を極めていたベトナム戦争に関して、「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい。」と発言して批判を浴びた。

1980年アメリカ合衆国大統領選挙

1980年アメリカ合衆国大統領選挙に共和党から出馬し、ジョージ・H・W・ブッシュCIA長官を副大統領候補に内定させた。ジョージ・H・W・ブッシュ前CIA長官と共に、民主党ジミー・カーター大統領とウォルター・モンデール副大統領のペアを489人の選挙人を獲得して破った。

大統領

1981年1月に大統領に就任し、この日にイランのアメリカ大使館占拠事件で人質となっていた大使館員らが解放された。1984年アメリカ合衆国大統領選挙では、2期目の再選を目指して出馬した。同じくジョージ・H・W・ブッシュ副大統領と共に、民主党のウォルター・モンデール前副大統領とジェラルディン・フェラーロ下院議員のペアを525人の選挙人を獲得して破った。1985年1月に2期目の大統領に就任し、1989年1月にドワイト・D・アイゼンハワー以来28年ぶりに2期8年の任期満了によって退任した。

内政

当時のアメリカ経済はジミー・カーター政権期から続くスタグフレーション(不況とインフレの同時進行)に悩まされていた。レーガンはこれを解決すべく、レーガノミクスと呼ばれる経済政策を行い、大幅な減税による国民の貯蓄と投資の増進などで経済を建て直そうとした。これによりスタグフレーションからの脱却には成功したが、結果的には貿易と財政両方で莫大な赤字を出す事に繋がった。

小さな政府志向によってアメリカの格差が急速に拡大・固定化し、治安が悪化するなど現在もアメリカが引きずる慢性的な社会問題を生み出してしまうなど、内政においてはお世辞にも成功した大統領ではなかった。

外交

レーガン・ドクトリンと呼ばれる基本方針を打ち出し、それまで比較的緩やかな関係に落ち着いていた。

ソビエト連邦・その他

悪の帝国(Evil Empire)と直接的に批判して刺激した。戦略防衛構想という眉唾ものの計画を発表した際は「アメリカならやりかねない」みたいな感じでそれまでの軍拡競争で疲弊し始めてきたソ連をビビらせた上、宇宙開発競争などを煽って同国の財政状況を悪化させて崩壊に追いやった。その他に反共運動を積極的に支援し、ベルリンの壁の崩壊と多くの東ヨーロッパ諸国の民主化を達成した。

日本

1970年代に表面化した日本との貿易摩擦では、アメリカ国内の保守派・大企業・組合などからの圧力を受けて一貫して強硬姿勢を取り続けたが、その一方で日本をアメリカの安全保障上欠かすことのできない「パートナー」として重視した。

ソ連への強硬路線は日米関係にも影響を与えた。1982年12月のレフチェンコ事件・1983年9月の大韓航空機撃墜事件など、冷戦期の北東アジアで発生した事件では日本と共同歩調を取り、その他に極東アジアにおける軍事プレゼンスを高める為、青森県の三沢基地に当時最新鋭の戦闘機であったF-16戦闘機の飛行隊を配備するなど、日本を含む極東アジアに陸軍・海軍・空軍・海兵隊合わせて14万人の兵力を展開した。

1983年11月・1986年5月・1989年5月に現職の大統領としては最多の3度に渡って日本を公式訪問している。

冷戦を終結させた大統領

以上の外交面の行いから「冷戦を終結させた大統領」と言われている。正式な冷戦終結宣言を行ったアメリカの大統領はレーガンの後任のブッシュだが、諸政策で終結宣言とソ連崩壊を導き出したのはレーガンである為、本当に冷戦を終結させた大統領はレーガンと言うべきであろう。

配偶者

1940年1月にジェーン・ワイマンと結婚したが、1949年7月に離婚した。なおワイマンはアカデミー主演女優賞も獲得した有名な女優であった。その後は1952年3月にナンシー夫人として知られるナンシー・デービスと再婚している。なおドナルド・トランプが大統領に就任するまで離婚歴のある唯一の大統領でもあった。

逸話

映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の中で1955年へマーティがタイムスリップし、その時代のドクから「1985年の大統領は誰だ?」との質問に「レーガンだ」と答えると「レーガンだって?あの大根役者の!?それじゃあファーストレディはジェーン・ワイマンか?」と揶揄するシーンがある(その少し前に、出演者として、レーガンの名前がある映画『バッファロー平原(Cattle Queen of Montana)』のポスターが映り込むという伏線もある)のだが、当の本人は怒るどころかそのシーンが大のお気に入りだったらしく、何度も巻き戻しては観ていたという。
それどころか、レーガンは後に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と絡めた一般教書演説も行っており、シリーズそのものを非常に気に入っていたことが窺える。

1981年3月に暗殺未遂事件に遭遇し重傷を負って入院したが、手術を担当する医師にジョークで「君たちがみんな共和党員だといいのだがね」と言い、医師も「私たち(担当スタッフ)は皆共和党員です」といって皆で笑った(実際にはその医師は民主党員だった)という重傷下でもジョークを忘れないタフネスぶりを披露してもいる。また、この暗殺未遂の生還から、それまでの「西暦の1の桁が0の年に当選した大統領は酷い最期を遂げる」とされるジンクスである「テカムセの呪い」を断ち切った人物ともされる。

その後

退任後に数年してアルツハイマー病を患っている事を告白し、発症の時期については明確な事は分かっていないものの、関係者の証言から在任中の末期には既に発症していたとも言われている。ナンシー夫人は自宅の彼の部屋を大統領執務室風に改装し、新聞を読むなど「仕事」をさせて在任中に近い環境を維持する事で症状の軽減に努めたという。

1994年11月5日に国民に宛てた手紙の中で“I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life.”「私は今、人生の黄昏へと至る旅に出かけます。)」と述べ、これが公の場で発した最後のメッセージとなってしまった。それ以降は人前には出ずに自宅で静かに療養生活を送っていたとされる。それでも病魔は徐々に彼の体を蝕んでいき、2001年1月に自宅内で転倒して腰骨を骨折して寝たきりとなって以降は、その病状は更に悪化していった。

2004年6月5日にカリフォルニア州ベル・エアにて、93歳で死去した。歴代の大統領の中では4番目の長寿となった。

ちなみに

  • レーガンの功績は多くの人々に讃えられ、名前が空港空母などに使われている。
  • タカ派として知られたレーガンだが、それらは全て演技であり、実際は「軍拡と核兵器による世界秩序が健全であるはずが無いと考えていた。」と後の側近は語っている。
  • 当時の中曽根康弘首相とは親密だったようで、『ロン』・『ヤス』と愛称で呼び合うほどだったという。


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