概要
ジョン・シドニー・マケイン3世(英語:John Sidney McCain III、1936年8月29日 - 2018年8月25日)は、アメリカ合衆国の政治家・元軍人。独立独歩の姿勢で知られており、自身が残した最後の大きな功績は、当時共和党が進めていた医療保険制度改革の廃止を阻止した事だった。その一方で2008年9月に金融危機が発生した後は、大手の金融機関に対する締め付けなどを巡っても業界寄りに立つ事を拒否した。2008年アメリカ合衆国大統領選挙での共和党の大統領候補であった。
経歴
1936年8月29日に当時はアメリカの一部だったパナマ運河地帯にあるココ・ソロ基地で、軍人であるジョン・S・マケイン・ジュニアと、慈善活動家であるロバータ・ライトの間に誕生した。1954年6月に父と祖父の足跡を辿って海軍兵学校に入学し、1958年6月にここを卒業した後は海軍の軍人として少尉に任官された。当時は海軍の飛行士となって空母から対地攻撃機を操縦し、1967年7月に航空母艦であるフォレスタルで火災が発生した時は瀕死の重傷を負った。
同年10月に空軍の第2航空師団が実行したハノイ上空でのローリング・サンダー作戦の爆撃任務に当たっていた時、撃墜されて重傷を負った後に北ベトナム軍に捕縛され、1973年3月に釈放されるまで捕虜であり続けた。拷問を経験して予定外の早期釈放を拒否し、戦争の最中に負傷して生涯に亘る身体障害を負い、1981年4月に軍人を退役した後はアリゾナ州フェニックスに移住した。
政界
1983年1月にアリゾナ州選出の連邦下院議員に就任し、1987年1月まで務めた後は同月に連邦上院議員に就任した。自身は一般的に保守の原則を堅持している一方で、LGBTの権利・銃規制・選挙資金改革など特定の問題に関しては党からの離脱を厭わない姿勢で異端者という評判も得たが、その姿勢は保守より穏健だった。1989年11月にキーティング・ファイブの1人として政治的スキャンダルに関与して大部分が無罪となった。その後は政治運動に資金を提供する規制を自身の特徴的な懸念事項の1つとし、最終的には2002年3月にマケイン=ファインゴールド法の成立に繋がった。
1995年7月にアメリカがベトナムとの外交関係を正常化した時、自身はその一件で努力を払った事で知られている。1997年1月から2001年6月・2003年1月から2005年1月まで上院商業委員会の委員長を務め、助成金の支出と割り当てに反対した。更に超党派のギャング・オブ・フォーティーンに所属しており、裁判官の指名を巡る危機を緩和する上で重要な役割を果たした。
2000年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党の大統領候補を目指して出馬したが、予備選挙での熱戦の末にテキサス州のジョージ・W・ブッシュ州知事に敗北した。2008年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党から出馬していたマサチューセッツ州のミット・ロムニー前州知事とアーカンソー州のマイク・ハッカビー前州知事を破り、共和党の大統領候補として正式指名を確実にした。
2008年アメリカ合衆国大統領選挙
本選挙ではアラスカ州のサラ・ペイリン州知事を副大統領候補に内定させ、民主党のバラク・オバマ連邦上院議員とジョー・バイデン連邦上院議員のペアと一戦を交えたが、最終的には365人の選挙人を獲得されて敗北した。その後はより正統的な保守の立場と態度を取り、特に外交に関してオバマ政権の行動に大きく反対し、2015年1月から上院軍事委員会の委員長を死去するまで務めた。
その後
2016年アメリカ合衆国大統領選挙では、当時は共和党の大統領候補であったドナルド・トランプを支持する事を拒否し、後にトランプ政権を声高に批判するようになった。一応オバマ政権の時代に成立した医療費負担適正化法には反対したが、その法律を廃止するべく2017年5月に可決された医療保険法には反対票を投じた。同年7月に膠芽腫と診断された後、治療に専念するべく上院での役割を縮小し、2018年8月25日にアリゾナ州コーンビルにて81歳で死去した。
家族
マケインには配偶者が2人存在しており、カッコ内は結婚していた期間を表記している。
- キャロル・シェップ(1965年7月 - 1980年4月)
1965年7月にペンシルベニア州フィラデルフィアで結婚し、式典はこの地にある有名なオールド・オリジナル・ブックバインダーズというシーフード・レストランを経営する家族の家で執行された。式の後に妻の2人の息子を養子に迎え入れ、夫妻には1966年9月に娘のシドニーが誕生した。
- シンディ・ヘンズリー(1980年5月 - 2018年8月)
1980年5月に結婚して4人の子女が誕生し、彼らは彼女の家族の財産のほとんどを彼女の名前で保管する婚前契約に署名しただけで無く、財産を分離して別々の所得税申告書を提出した。