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マリー・テレーズ

まりーてれーず

マリー・テレーズはフランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの長女。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うした。
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概要編集

マリー・テレーズはフランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの長女。フルネームはマリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス


ルイ16世の弟シャルル10世の長男であるルイ・アントワーヌ王太子の妃となった。

ルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うした


夫婦仲は悪くなかったが夫との間に子が生まれることはなかった(一度流産している)ため、ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることとなった。


思想的には一族伝統の王権神授説論者であった。

しかし比較的誰に対しても寛容だった父ルイ16世や、堅実に様々な派閥を取り持とうとした叔父ルイ18世とは異なり、マリー・テレーズは革命派やボナパルト派に対して式典での同席すら拒むなど、極めて不寛容な性格であった。

叔父のシャルル10世と並び、「超・王党派」と称されている。


生涯編集

幼少時の彼女は、父16世が処刑前日に遺した「復讐に囚われるな、敵を赦せ」という教えを大事にしていた。これは当時のフランスで一般的だったカトリックの美徳であり、また報復合戦で一族が全滅することを避けるための知恵でもあった。


しかし革命政府に幽閉されて後、父を殺した敵を素直に許して祈り続けたマリーを待っていたのは、遺された母も叔母も同じく斬首刑となり、生き別れた弟王ルイ17世は虐待を受けわずか10歳で衰弱死するという、最悪の結末であった。

やっと革命政府が倒れて開放されたかと思えば、ナポレオン政権に邪魔者と見做されて国を追われ、欧州を転々とする。流浪生活の中、わずかに生き残った縁者も次々に暗殺され、一日たりとも気の休まることはなかった。


彼女には有名な肖像画が二枚ある。一枚は幼い頃に描かれた眩しい笑顔の画、そしてもう一枚は亡命から帰還した後に描かれた無表情の画である。その美しく整った顔は口だけ愛想笑いをしているが、目にはまるでこちらを睨みつけているような威圧感がある。美術評論家たちはこれを苦悩の半生がそうさせたのだと解釈しているが、当たらずとも遠からずであろう。


叔父ルイ18世が王政を復古させると帰郷し、革命派やボナパルト派の政治家を徹底的に弾圧して恨みを晴らした。その中には、フランス史上もっとも辣腕な警察大臣として恐れられたジョゼフ・フーシェも含まれる。16世夫妻の死刑に賛成票を投じたフーシェはマリーにとって文字通り親の仇であり、父の「復讐を忘れろ」という教えは顧みられることがなかった。


1851年、肺炎により74歳(満72歳)で死去。


逸話編集

偽王太子編集

実弟ルイ17世は幼くして非業の死を遂げたが、その最期に不明の点が多かったことから「本物のルイ17世は逃亡しており、亡くなった少年は別人なのではないか」という噂(生存説)が立った。そのためルイ18世が王政を復古させると、ブルボン家の財産目当てに「自分こそが逃亡した王太子だ」と名乗り出る者が続出した。騙り者はヨーロッパだけではなくアメリカ大陸セーシェル諸島からも現れ、マリー・テレーズへの面会を次々と求めてきた。


タンプル塔の上階で弟が死ぬまでその悲鳴を聞き続けたマリーにとって、弟を名乗る偽物の来訪は侮辱以外の何物でもなかった。偽王太子の中にはかなり勉強して王室関係者を騙し仰せた者もいたのだが、真実をわかりきっていたマリーは彼らに会って確かめる事すらしなかった。


彼女の生涯の苦悩をよそに長年「ルイ17世生存説」は囁かれていたが、2000年4月、世話係が密かに保管していたルイ17世のものとされる心臓とマリー・アントワネットの遺髪がDNA鑑定され、「心臓はルイ17世のものに間違いない」という結果が出た。マリー・テレーズの死後150年を経て彼女の正しさが証明された瞬間であった。


この鑑定結果に異議を唱える人々もいるが、今後覆されることはないだろうと思いたい。


趣味編集

針仕事が得意であり、よく自作の刺繍を売りに出しては売上金を恵まれない子どもたちに寄付していた。父の「敵を赦せ」という教えは守れなかったが、母アントワネットの(ひいては祖母マリア・テレジアの)「貧者を慈しめ」という教えは生涯に渡って墨守しつづけた。


マリー・アントワネットの遺産編集

実母マリー・アントワネットの忠臣フェルセン伯爵は、一時不倫を疑われて追放されたにもかかわらず忠義を貫き続け、アントワネットが娘に遺した金品を正当に相続させようと欧州中を奔走した。その殆どは神聖ローマ皇帝フランツ2世に収集されていたが、1797年2月24日にフェルセン伯に謁見したフランツ2世は、マリー・テレーズの相続権を認め、結婚の持参金として返却すると約束した。フランツ2世はマリーを自分の弟カール大公と結婚させ、フランスへの影響力を増そうと考えていたのである。


しかし、マリーはルイ18世が薦めるアングレーム公ルイ・アントワーヌとの結婚を選んだ。フランスとの仲を壊したくないフランツ2世もこの違約を黙認した。アントワネットの遺産がその後どうなったかは記されていないが、代わりにルイ18世の遺産がマリーに相続され、その後の金銭には困らなかった。


発声障害編集

父と母と叔母が処刑され、弟は別室に幽閉状態となったマリー・テレーズには、長い間話し相手がいなかった。そのせいで発声障害を患うことになり、タンプル塔から出た後も生涯を通して発声に難があったという。


ナポレオンへの憎悪編集

かつて国王軍だったナポレオン・ボナパルトに散々煮え湯を飲まされ、彼を憎悪していた。ルイ16世の従兄弟でマリー夫妻の同志であったアンギャン公など、冤罪で拉致されたのち即日銃殺されており、物静かなマリーですら「犯罪者ボナパルト」と怒鳴ったと伝わる。

1810年3月11日、マリー・テレーズがウィーン宮廷時代に可愛がっていたマリア・ルイーゼ(フランス皇后としてはマリー・ルイーズ)がナポレオンに二番目の妻として嫁いだという知らせには、ルイ18世もマリー・テレーズもショックを受けたという。


関連タグ編集

ルイ16世:父

マリー・アントワネット:母

ルイ17世:弟


ルイ18世シャルル10世:叔父。


外部リンク編集

マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス(Wikipedia)

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