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ブルボン朝

ぶるぼんちょう

近世フランス王国の王朝。1589~1792年、1814~1830年の間フランスの王朝となった。転じて現スペイン王室などにも使用される。
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ブルボンも参照。


概要編集

近世フランス王国の王朝であり、フランス王国でも最も有名な王朝と言える。近世の16世紀末にヴァロワ朝の断絶を受けて、その縁戚筋にあたるブルボン家のヴァンドーム公アンリが「アンリ4世」として即位したのが始まり。初代アンリ4世と、最後のシャルル10世を除く全員が「ルイ」を国王としてのファーストネームに使用したため「ルイ王朝」とも呼ばれた。

なお、先任のヴァロア朝(支流含む)を通じて、中世初期のユーグ・カペー以来1000年以上続くカペー朝の男系子孫であり、そのためフランス革命後ルイ16世の裁判名は「ルイ・カペー」と名乗っている。


全盛期からフランス革命まで編集

第3代ルイ14世の時代に強大な中央集権国家体制を構築した。ルイ14世は父が高齢の時の子故に僅か4歳で即位したものの曾孫が生まれる時代まで長命であり、在位期間72は記録が確実な国王の在位記録として現代に至るまで世界最長記録である。しかし相次いで皇太子・皇太孫を亡くし、第4代ルイ15世は曾孫として幼くして即位、側近政治が蔓延ることとなる。道楽好きの15世の元でフランス文化は華やいだ一方、現代でも想像がつかないレベルの格差などが蔓延し、相次ぐ戦争もあって社会は疲弊していく。

第5代ルイ16世(15世の孫、父は早世)の時代には改革に手を付けようとするも時すでに遅く、とうとうフランス革命が発生し、王は処刑、王制は廃止される羽目となる。囚われの皇太子は名目上の王「ルイ17世」となるが、監獄の中で病にかかり早世するなど冬の時代を過ごした。


王政復古編集

その後フランスは恐怖政治などで共和制が迷走し、ついにナポレオン・ボナパルトにより帝政(ボナパルト朝)が開かれるもナポレオンの失脚で帝政が崩壊すると、ようやくブルボン朝による王政復古が成された。


復古にあたっては16世の家系が断絶しているため、弟があらためてルイ18世として即位。しかし社会的な不安は続く。18世が継嗣無くして崩御すると、更に弟のシャルル10世が即位した。

しかし、兄2人が毀誉褒貶ありながらも王制の維持に尽力したのに対し、シャルル10世は時代に反した絶対君主制の復活を夢見る強硬派であり、これが国民の猛反発を招く。ついに王は退位し、この時を最後にブルボン朝は現代まで王位に戻ることは無かった。


王制終了以後編集

シャルル10世退位を受けて、ルイ14世の弟の家系であったオルレアン家当主ルイ・フィリップが国王に即位し「オルレアン朝」が開かれるもこれも長続きせず、彼が退位したことでカペー家が900年に亘って維持してきた一門の王位は公的に喪われた。

更にその後一時共和制となるも、ナポレオンの甥が大統領就任から皇帝に即位(フランス第二帝政・ナポレオン3世)、復古ボナパルト朝となるも、彼もまた退位する羽目となり、ナポレオン3世の退位をもって現在に至るまでフランスは共和制が続くこととなる。


一方のブルボン家では、シャルル10世とその長男のアングレーム公が死去すると、次男の子シャンボール伯アンリを除いて本家の男子がいなくなる危機的事態に遭遇する。シャルル10世より下には流石にもう弟はおらず、シャンボール伯はシャルル10世の唯一の男系男孫であり、サリカ法という継承法典を使用していたため女子継承が出来ないブルボン家の最後の跡取りであった。

これ以外にはオルレアン家か、貴賤結婚をした家系または愛人の子か、スペインブルボン朝を開いたフェリペ5世(ルイ14世の長男グラン・ドーファンの次男)の子孫を残すのみであった。

しかし妾子はもちろん貴賤結婚は継承法に違反し、オルレアン家とは王位を巡って対立、スペイン王室の家系から王を出すことはユトレヒト条約に違反しているという規定から、シャンボール伯以外に継承者たりえる者がいなかったのである。

シャンボール伯は精力的に活動したが、王位に復することは敵わず、後継ぎを残さないまま1883年薨去。これによりブルボン正統王朝家系は途絶えることとなった。


本家断絶後編集

シャンボール伯の死により、ブルボン家の後継ぎが誰になるかは現代に至るまで揉めている。

時を同じくしてスペイン家では王位継承を巡ってカルリスタ戦争と呼ばれる内戦が発生。戦争名ともなったカルロス王子派が敗北すると、彼らは王子を「カルリスタ派」の国王として祭り上げ、勝利したスペイン国王イサベル2世派と対立していた。

これを好機と見たシャンボール伯の未亡人は、カルリスタの王位継承者モンティソン伯フアンをフランス・ブルボン家の後継ぎに指名したのである。ユトレヒト条約はスペイン国王がフランスの君主を兼ねることを禁止した条約であったが、正式なスペイン王ではないカルリスタ派の当主なら問題が無いという理屈であった。また、サリカ法に従えば、男系男子継承で見てもっとも長男系に当たるモンティソン伯が後継者となる。


一方、オルレアン家の方も、ブルボン本家が途絶えたのだからという理屈でルイ・フィリップの嫡孫に当たるパリ伯フィリップをブルボン家全体の後継者と表明した。これにより、ブルボン家を支持したレジティミストの一部はオルレアン家支持のオルレアニストに合流するが、合流しなかった人々はますますオルレアニストとの対立を鮮明化することとなった。


現代まで編集

モンティソン伯の家系は孫の代までに断絶することとなる。一方のスペイン王室本家は、男系で見ればカルリスタより下位ではあったが、一応ブルボン家の男系の血筋であったため、フランス王位請求権は改めてスペイン家に合流するとされた。

これは、カルリスタの本流が絶えた同時期にスペインでも革命が発生し、共和制となって王室が放逐されていたことによる。要するに、スペイン王で無くなったのだからユトレヒト条約には引っ掛からないという理屈であった。

スペインの政体は二転三転したのち、独裁者フランシスコ・フランコが権力を握ることで一先ず決着がついた。この間、元スペイン国王アルフォンソ13世は危機に瀕した王家を安定させるため、身体障碍聾唖)を抱えた次男セゴビア公ハイメを継承者から外し、四男バルセロナ伯フアンを後継者に指名した(長男は血友病に加え貴賤結婚のため継承から元から除外、三男は夭折)。

フランコはバルセロナ伯のリベラルな思想を毛嫌いしたが、その子フアン・カルロスを後継者に選んで教育することとなり、結果的に1975年のフランコの死によりスペイン王制は約45年ぶりに復活を迎えた。


さて、セゴビア公は聴覚障害を抱えてはいたが他にこれといって能力に問題はなく、子供を作ることが出来た。長男は結局血友病が元で子孫を残さず死去しており、即ちセゴビア公の系統が男系男子としては最長男系である。

一応セゴビア公の結婚相手も貴賤結婚に抵触していたものの、ユトレヒト条約の制限を回避するためレジティミストはセゴビア公とその子孫を新たなるフランス王位継承権者に選択したのであった。現在、セゴビア公の孫が「ルイ20世」を名乗り、レジティミストのフランス王位請求者、すなわちブルボン家当主として支持されている。


なお、オルレアン家がブルボン家の権利も継承したと見るオルレアニストの理屈では、現在もオルレアン家当主がその地位にあるとしている。幸いにもオルレアン家は後継に恵まれ、現在の当主ヴァンドーム公ジャンが「ジャン4世」を名乗っている。


余談ではあるが、「カルリスタの王位」継承は更に複雑な過程を辿っており、あくまでスペイン王家との合流を避けるべく別の人物や分家の人物を後継者に指名したため、「ルイ20世」ではなく別の人物がカルリスタの王位請求者となっている。ただしこれだけでも複数いる上、このうちの一人はフランス王位請求権をも引き継いだという主張がある。


もっと言えば、「ルイ20世」、「ジャン4世」、そしてカルリスタの王位請求者を称する全員が同時にエルサレム王の称号も請求権を持つとしている。エルサレム王に至っては彼ら以外にも何人もの請求者が存在するため、もはや誰が正統なのか皆目見当がつかないレベルである。


その他編集

スペイン王フェリペ5世から枝分かれする形で、シチリア王家とパルマ公家が誕生した。何れもイタリア統合の過程で王位を喪うが、彼らの系統も「ブルボン朝」と呼ばれる(スペインブルボン朝・シチリアブルボン朝・ブルボンパルマ朝)。


関連編集

世界史 ブルボン フランス スペイン

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