概要
ルイ18世の弟。兄の崩御に伴ってアルトワ伯から国王に昇格する。
実兄のルイ16世やルイ18世が実は頭脳明晰だったという再評価が進んでいるのに対し、シャルル10世にはそういった話が少ない。当時から現在に至るまで、史家の見解はブルボン家屈指の暗君だったという評価で一致している。
なにしろ、せっかく兄が復活させた王朝を7月革命で倒されたのである。16世がフランス革命を「止められなかった」という理由で暗君とみなされるなら、失政を連発して革命を「引き起こした」シャルルは大暗君とされるのも致し方ないところであろう。
その失政の内容は、革命への逆行であった。確かに革命政府が善政を敷いたどうかは今尚議論の余地があり、王政より遥かに悪かったと批判する学者も少なくない。しかし「国民主権」「思想・信仰の自由」「法の下の平等」という革命の理念はフランス全土に浸透し、第一帝政を経て人々の心に強く根付いていた。
ところがシャルルはこれらを全否定し、思想的に百年は退行したと言われる古めかしい専制君主を目指した。没収された貴族の領地を税金で買い戻す、聖職者の特権を復活させる、平民身分への不公平な課税を再開する、などなどやりたい放題。伯爵時代にナポレオン狂信者から愛息ベリー公を暗殺されるという不幸も、この頑迷さを後押ししたであろう。
当然ながら人気は最悪で、革命派の政治家にはボロクソに罵倒され、軍人たちにも「傲慢な貴族には従いたくない」と軽んじられていた。閲兵式で兵隊に罵られた国王は彼くらいのものである。この屈辱はますます反動的な政策に繋がり、堪忍袋の緒が切れた市民は暴動革命を起こしてシャルルを追放した。
王でなくなった後のシャルルは全ての権力を失い、欧州を転々とした。幸い親戚のオルレアン家からルイ・フィリップが名乗りを上げ、オルレアン朝が成立することでフランス王室の首の皮は繋がったかに見えた。しかしフィリップもほどなく外交的失策によって退位を余儀なくされ、フランス王室の命運は尽きた。
1836年、シャルルは亡命先のイタリアで薨去。享年79。野心を忘れた後の彼は憑き物が落ちたかのように上品で穏やかな貴族になり、周囲の人々に広く愛された。没後も地元民が「この方は我々の同胞だ」と訴えて遺体の返却を拒んだほどである。このため元フランス王としては珍しく、サン・ドニ大聖堂でなくイタリアの田舎(現スロベニア領)に埋葬されている。
余談
- フランス革命中もフランス全土が革命軍に従っていた訳では無かった。特に、西部のヴァンデや北西部のブルターニュは王党派や立憲君主派、カトリック教徒の力が強かった上に、ブルターニュはイングランドとウェールズの様にフランスとは同君連合の関係で独自の法律や統治機構が有り、革命派による既存の法体系の破壊には貴族・平民問わず激しい反発が生じた。更に、ブルターニュ人の中心である地方小貴族達はアメリカ独立戦争帰りのゲリラ戦に長けた将校が多く侮れない戦闘力と指導力を有していた。ヴァンデの王党派軍やブルターニュ人達は総大将としてシャルルの出馬を要請し、シャルルも一度は出陣の約束をしたものの、土壇場で剣一本を贈って敵前逃亡すると言うやらかしを犯したお陰で王党派、特にブルターニュのゲリラ軍の士気は瓦解。鎮圧軍の新司令官であるオッシュ将軍が融和策に転じ、その後を継いだ貧乏貴族出身のナポレオンが『地方貴族達の家屋敷とその周りで直営可能な農地の返還による富農としての再出発』『カトリックとの和解』を進めた事で、王党派最強の戦力がナポレオンに靡いてしまうと言う最悪の事態に繋がった。即位時点で王党派からの人望もマイナスだったのである。因みに、文豪・外交官として有名なシャトーブリアンもブルターニュの立憲君主派地方貴族である。
- 彼以降、王や皇帝が何度か再び専制君主の座につこうとしたが、全ては失敗し、フランスは共和制国家となる。
- 革命を憎むあまり失政を繰り返した彼だが、侵略戦争や死刑の乱発といった虐政はしていないことに注意を要する。亡命先でも上品な人柄で愛されており、動乱期の王でなければもっと穏やかに過ごせたかもしれない。
- 悲運の姪であるマリー・テレーズ夫妻を同志としても親戚としても可愛がっており、ルイ18世と自分の遺産を相続させた。このためマリーは革命後も金銭にだけは困らなかったという。