概要
フランスブルボン朝の復古王政期の国王。フランス革命で処刑されたルイ16世の弟。
革命により亡命生活を送っていたが、ナポレオン・ボナパルト退位によって1814年に王位についた。ナポレオンが復権したため再び亡命したが、ナポレオンの百日天下に終わったため1815年にパリに戻った。
その統治は先王たちやナポレオンと違い、無謀な戦争や急激な改革を慎み、堅実に国体を護持することに力が注がれた。議会を通して民の声をよく聞き、兄の仇である革命派とも融和につとめ、その治世中には大きな問題を起こさなかった。これは彼自身が温厚な性格であったことに加え、その幕僚にリシュリューやタレーランといったフランス史上屈指の天才たちを揃えており、彼らの補佐を受けたことも大きかったとされる。
なまじ良王であったために王党派の声が大きくなりすぎ、白色テロ(過激王党派による革命派の暗殺)の横行を招いたという一面もあった。しかし、これに倦んだタレーランが依願退職するというピンチに陥ると、その退職を利用してタレーラン嫌いのロシアやプロイセンとの友好を深めるなど、転んでも唯では起きない機転を見せている。
また自他ともに認める肥満体型で成人病のデパートであり、国民はその醜態を遠慮なく誹謗中傷した。しかし当のルイ18世はこれを一笑に付し、逆に哀れみを乞うことで反対派にも取り入るなど、強かに立ち回った。
こういった鵺のような振る舞いは、不倶戴天の敵であったナポレオンからも「奸智に長けている」という最大級の評価を受けている。
ルイ18世が継嗣無くして崩御すると、更に弟のシャルル10世が即位した。
しかし、シャルル10世は時代に反した絶対君主制の復活を目論み国民の猛反発を招く。
それは、ブルボン朝の終焉の決定打となるのだった…。
余談
在位中に死亡した最後のフランス君主
ルイ18世以降のシャルル10世、ルイ・フィリップ1世、ナポレオン3世がいずれも革命や敗戦により失脚したため、ルイ18世は王座を守ったまま、在位中に死亡した最後のフランス君主となった。
カリスマ的独裁者VS堅実な立憲君主
帰還したナポレオンが来襲した際「ナポレオン討伐軍の殆どがナポレオンに寝返った」という逸話が残っているため、ルイ18世は「外国の言いなりで国民に人気の無かった王様」という風評被害(特にナポレオン関連の書籍では顕著)があるが、少なくともルイ18世本人は堅実な融和政策に勤めた良識的な立憲君主であり、政敵であるナポレオンからも上述通り評価されている。
姪、マリー・テレーズとの関係
兄王ルイ16世の子の中で唯一生き残った姪マリー・テレーズを非常にかわいがり、マリーもルイ18世の治世を相談役として支えた。しかし完全な国王主権を望む「超・王党派」であるマリー・テレーズは中道的なルイ18世とそりが合わない面があり、政治論で何度も衝突したという。
ルイ18世は叔父として彼女の悲しみを誰より理解しており、革命派の部下を罷免するなどしてある程度は彼女の望みを叶えさせた。