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フィリップ2世

ふぃりっぷにせい

フランスに栄えたカペー王朝の国王。フランスに繁栄をもたらした最初の偉大な王として「尊厳王」(オーギュスト)の尊称を奉られた(メイン画像右にいる黒髪の男性)。
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概要

生い立ち

1165年8月21日、フランスにある=ドワーズ県のゴネスでフランス国王ルイ7世の長男として生を享ける。生母は三番目の后であったアデル・ド・シャンパーニュ。フィリップが病弱なのを心配したルイ7世はカンタベリー大司教であるトマス・ベケットの祠へ治癒祈願へ出かけた。当時、英国王ヘンリー2世と対立していた中の参拝であったことから見ても、溺愛と期待ぶりがうかがえるエピソードである(男子がいなかったフランスは英国に吸収される危険があった)。

対英抗争と十字軍

1180年に父のルイ王が崩ずるとフィリップは15歳で即位する。王位を確実にするために14歳で父王と共同統治をしてキャリアを身につけたフィリップと結ばれたのはエノー伯ボードゥアン5世の娘イザベル姫だった。カロリング家の血を引く姫とカペー王の間には皇太子ルイ8世が誕生し、両家の絆は固まった。脅威であったイギリス王家とは強硬策と懐柔策を兼ねた方法で接しており、ヘンリー2世の子供であるジョフロワ王子とフィリップは仲が良く、ヘンリー王の后・アリエノールが父の前妻であったのも生かして兄弟同然の間柄だったとも言う。

一方、ジョフロワが亡くなった後はリチャード1世とフィリップは親交を結び、ヘンリー2世を憤死させた。リチャードと盟友になって第3次十字軍に向かっても抜かりなく策をめぐらし、兄の仕打ちに怒るジョン王子やリチャードを嫌う神聖ローマ帝国の面々を動かして、ついにはリチャード1世を捕虜にしてしまう策を練った。

領土拡大

十字軍の大義に興味がなかったフィリップはサラディンとの戦いでアッコンを陥落させると、歩調が合わなかったリチャードを袂を分かち、病気を理由に帰国するや否や各地に働きかけて反リチャードの行動を起こすが神聖ローマのレオポルトは身代金でリチャードを釈放し、ジョンは兄に詫びて降参するなど計算が狂う。
1194年のフレトヴァルの戦いでは大敗を喫し、1196年にはリチャードに占領地を返還させられるなど忍従と苦戦を繰り返すが、1199年アキテーヌ公領で獅子心王たるリチャード1世を戦死させる。

フィリップは1200年にジョンが配下の貴族ユーグ・ド・リュジニャンの婚約者であったイザベラを奪った疑いで彼を法廷に呼ぶ(イギリス王は大陸領においてはフランス王の配下扱いだった)が拒否されたのを理由に領有権を剥奪し、ジョンの甥であるアーサーに与えて戦争を起こす。当のアーサーは1203年にジョンとの戦いで死亡するが、それが元で多くの諸侯を自軍に寝返らせたフィリップは英国からフランス領の殆どを奪ったのだった。

尊厳王

その後もフィリップ2世はローマ教皇や他国王家の間を行ったり来たりしつつフランスの勢力拡大に務めた。1214年に起きたブーヴィーヌの戦いでは神聖ローマ帝国とイギリスの連合軍を愛息であるルイ8世との共闘戦線で撃滅し、王権を確立した。翌年にはルイをイングランド本土へ侵攻させて王位簒奪を目論むが、1216年にジョン王が崩御したことと長男のヘンリー皇太子が諸侯に支持されて即位したため、失敗に終わる。

それでもフィリップの優位性は揺るがず、彼は1223年にイヴリーヌで崩御するまで都市整備や学校などの設立で忙しく働き続けた。サン・ドニ大聖堂に埋葬され、初代ローマ皇帝アウグストゥスに因んだオーギュストの尊称を得たのだった。享年57歳。

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