概要
ジョン欠地王(1166~1216)とはイギリス・プランタジネット朝のイングランド王(在位:1199~1216)である。父がヘンリー2世、兄にリチャード1世がおり、子のヘンリー3世が次の王となった。その生涯で多くの領土を失ったことで英国内での評価が低い。ただし、欠地王という日本での俗称の由来になった"John Lackland"(土地なしのジョン)とは、後述の通り父から土地を相続できなかったことに由来する。現在の英国政治の基盤の一つであるマグナ・カルタを制定したので歴史的には重要な王でもある。
生い立ち
1167年12月24日、プランタジネット王朝の初代王・ヘンリー2世の末子として生を受けるも、幼い彼には土地を与えることができなかったため、父王からJohn the Lackland(土地の無いジョン)とあだ名をつけられた。
ジョンが妊娠している頃には父王の女性関係がもとで夫婦仲が険悪になっていたこともあってか、他の兄弟に比べて母アリエノールからの愛情は薄い反面、父王からは溺愛されていた。
父王が兄の土地を割譲して与えようとしたものだから当然反発があり盛大な親子喧嘩に発展。一度は父王が勝利するが、母の幽閉やリチャードの婚約者の略奪など親子関係には決して埋まらぬ亀裂が生じた。
そんな中でジョンは10歳の頃に父王から臣従させたばかりのアイルランドを分配されるも、ほぼ名目上に等しいものであった。
一門内部の争い
こうした不運と冷遇を憤ったのか、ジョンは以前から父と不仲だった兄のリチャード1世に1188年以降から従い、重荷だった父のヘンリー2世に大打撃を加え、ついに憤死させる。
1189年に勃発した第3回十字軍に兄王が掛かりきりになると、王位奪取を目論む。フランス国王フィリップ2世がジョンと結託した話は有名だが、神聖ローマ帝国の介入説もあって謎が多い。
だが、その御家騒動は失敗に終わってしまい、帰って来た兄に屈服したジョンは雌伏の時を過ごす。
フランスとの対立
1194年に帰還したリチャード1世はフランス各地を転戦してフィリップ2世と戦い、1996年のガイヨン条約にて不在の間に占領された土地のほぼ全てを取り返すが、1199年4月6日に帰らぬ人となる。
その時に後継者がいなかったリチャードは甥のアーサー王子ではなくジョンを後継者に指名。母アリエノール、摂政ウィリアム・マーシャル、ヒューバート・ウォルター大司教らの後押しもあり即位が確定する。
1200年にジョンは妻であるイザベル・オブ・グロスターと離婚し、フランス貴族の娘であるイザベラ・オブ・アングレームを娶る。
ところが、イザベラ王妃はフランスに仕えるリュジニャン家の子と婚約していたことにより、リュジニャン家は激怒し反乱を起こす。さらに彼の訴えを受けたフィリップ2世は1202年の時点でジョンを法廷に召喚する。(イングランドの指導者は大陸領においてはフランス王の配下扱い)
ジョンが呼び出しに応じなかったのを理由にフランス国内にあるイングランドの領剥奪を宣言していたため、争いは避けられなくなってしまった。
フィリップ2世と彼の支援を受けたアーサーとの戦いが始まり、1203年にはアーサーを捕えるなどそれなりの活躍を見せる。
失地王
ところが捕虜のアーサーが幽閉後に行方不明となり、ジョンに殺されたという噂が広まる。さらには劣悪な待遇で多くの捕虜を死なせてしまい、アンジュ―やブルターニュの諸侯たちは戦わずして次々とフランスに寝返った。
勢いに乗るフランス王の軍は次々と国内のイングランド領を攻め落としていった。こうしてフランス国内でジョンに残された領土はアキテーヌだけとなった。
その後もジョンには不運が重なる。1205年にカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが死去した際、ローマ法王インノケンティウス3世が派遣した聖職者の受け入れを拒否し、さらに教会の財産を没収したことから破門され、フィリップ2世に大義名分を与えてしまうが、ジョンはイングランドを献上することで法王の破門を解く(後に法王はジョンに与える形で領土返還をしている)。
その後もジョンはフランス打倒のために執念を燃やし度重なる臨時の徴税を重ねるが、芳しい結果は得られず、ついには諸侯の反乱により内戦状態に陥る。
ジョンは領民や貴族の不満を解消するため1215年6月15日にラニーミードでマグナ・カルタ、すなわち大憲章に署名する。弱体化した王権の象徴と言えるこの事件だが、それは皮肉にも英国を現在まで続く立憲君主制の本場たらしめる一端を作ったのだった。
ところがジョンはマグナカルタへの不服を教皇に訴えて無効のお墨付きをもらうと、再び徴税を行うようになり、イングランドは再度内戦状態に陥る。
翌年の1216年10月18日、ジョンは赤痢の悪化によって崩御した。享年48歳。
逸話
- フランスに屈したと言う不名誉から英国民に嫌われること甚だしく、ロビン・フッドの物語では憎まれ役で、シェイクスピアの劇でも悪人扱いである。
- リュジニャンの許婚や臣下の女性を愛人にした行為も責められているが、当時は初夜権や略奪婚が普通に行われていた事もあり、ジョンだけが異常と言うわけでもない…のだが、これらの諸事情による徹頭徹尾の悪評が原因でジョン2世と言う英国王がいないとも言われる(ジョンと言う王子や親王は実在したが、いずれも即位せずに亡くなっている)。略奪婚そのものだけでなくそれに対する補償を何もしなかったりと、吝嗇家な面もまたジョンの主要な悪評の一つである。
- 一方、フランスを倒すためにイギリス海軍(RoyalNAVY)の育成に力を注ぎ、世界遺産にも登録された港町リヴァプールの建設を手掛けるなど、賢帝としての一面もある。兄王の失政(十字軍の費用を捻出するために売官したり、ロンドンまで売ろうとした)のしわ寄せが来たという見方もある。
- 軍事や外交では有能ではなかったが、内政では兄王の代にボロボロだった経済を回復させたり、渋々ながらとは言えマグナ・カルタによって立憲君主制の基礎を築くなど暗君説に疑問を呈する声もある。もっともマグナ・カルタは嫌々結ばされたもので本人は教皇の後ろ盾を得て約束を反故にして内乱を起こしたりと、本人の功績でもなんでもないのだが。
- 死因は赤痢だが、桃の食べ過ぎで死んだという説を出されたこともある。某下着メーカーとは関係ない…と思われる。
主な家族
- 父:ヘンリー2世
- 母:アリエノール王妃
- 兄:リチャード1世など
- 甥:アーサー王子。兄ジェフリーの子。
- 妻:イザベラ・オブ・アングレーム。前妻との間に子供が出来なかったため、彼女が正妻とされる。ジョンの没後、リュジニャンの息子と再婚した。
- 息子:ヘンリー3世。イザベラとの間に生まれた長男で後継者になる。政治力は目立たないが、信心深さと文化への造詣で有名。
- 孫:エドワード1世。ヘンリー3世の子で、祖父の名誉回復を成し遂げたともいえる名君。
子孫は分裂や対立を繰り返し女王や女系も挟んだ後現在に続く。
失地王と言われた彼だが孫のエドワード1世を経由している。
ジョン欠地王が登場する作品
実写版
『ロビンフッド』(1973/1991/2010にそれぞれ作品がある)や『冬のライオン』(1968)など中世の英国を舞台にした作品に多く登場。矮小化された愚鈍な姿や、悩みながらも乱世を生き抜くなど必ずしも悪人扱いではない。
ディズニー映画
ディズニーアニメの『ロビン・フッド』(1973)にヴィランズとして登場。プリンス・ジョンと呼ばれる。兄が獅子心王なせいか彼は子ライオン。兄王を甘やかした亡母を恨む一方で慕う気持ちはあり、「ママ」と口にしつつ自分の耳を引っ張り親指をしゃぶる癖がある。蛇のヒス、狼のシェリフを従えてロビン一味を目の敵にするが、事あるごとに破滅させられる。史実では何も悪いことをしていないのに創作のせいでバッシングされている典型例といえるが、人気は高い(プリンス・ジョンの項目を参照)。
コーエーの作品
ジンギスカンでは裏切らない武将だったが、元朝秘史では難易度最高の君主、チンギスハーンでは雑魚の上に裏切りイベントがあるなどネタにされる。信長の野望では劉禅や今川氏真と組んで天下取りを目指すなど、脳筋の兄リチャード共々ネタキャラ要素満載である。
Fate/strangeFake
セイバーのサーヴァントリチャード1世の弟として登場。
本編に登場はしないがリチャードの過去に登場している。華々しい活躍を遂げた彼とは対照的に鬱屈した存在として描かれている。リチャードも弟をそういう立場に立たせた件については申し訳なさを抱いている模様。