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イングランド王エドワード1世

いんぐらんどおうえどわーどいっせい

イングランド王エドワード1世とは、中世イングランドの国王。プランダジネット朝第五代目にあたる。190cmの長身であったことから「Longshanks(長脛王)」、再三に渡ってスコットランドに遠征したことから「Hammer of the Scots(スコットランド人への鉄槌)」の二つの渾名を持つ。

概要編集

生没年1239年6月17日 - 1307年7月7日

在位1272年 - 1307年


先王ヘンリー3世の長男として生まれる。皇太子時代にレスター伯シモン・ド・モンフォールを中心とする大規模な貴族の反乱を経験する。この時彼はシモンを警戒する貴族に擁立されて反撃し、イーヴシャムの戦いでシモンを敗死させて王権回復に成功している。第8回十字軍にも参加していたが、遠征中に父が死去したため即位。

帰国後は土地保有制度改革や教会裁判権の抑制などの諸政策を次々と打ち出し、国内の融和と安定を図る。また、戦費調達のために「模範議会(招集された者の構成が実状にあって妥当だったためこう呼ばれた)」と呼ばれる議会を招集し、これは後の立憲君主制の基礎となった。


このように国内は安定していたが、国外では領土拡大のために周辺諸国との争いに明け暮れた。

まず、父の代より敵対していたウェールズ大公ルウェリン・アプ・グリフィズを敗死させてウェールズ公国を滅ぼし、1290年のスコットランド王位継承争いにも介入して同王国の傀儡化に成功。こうして万全を期した1294年、ガスコーニュ地方を巡ってフランスのフィリップ4世と開戦したが、臣従させたはずのスコットランド王ジョン・ベイリャルがフランス側として反旗を翻す。この反乱はすぐに鎮圧され、スコットランドは一時的に直轄地となるも、今度はウィリアム・ウォレスを中心とした反乱が勃発してスコットランド独立戦争に発展。1298年にフォルカークの戦いでウォレスを破るも、以後もウォレスのゲリラ戦による抵抗に遭う。結局1303年にフランスと講和し、フランス戦への布石に過ぎなかったはずのスコットランド戦に本腰を入れざるを得なくなった。そして1305年、ウォレスを捕らえて処刑することに成功したが、今度は反イングランド派のロバート・ド・ブルースがロバート1世としてスコットランド王に即位してイングランドと敵対。1307年の3度目のスコットランド遠征の途上、病死した。


人物編集

強固な意志を持ち、武勇に優れ、政策や計略にも長じた野心家であった。イギリスにおいては賢王と賛えられ、イングランド史上屈指の名君とされている。またトランプのキングのモデルとも言われている。

生涯に二度結婚している。最初の妻はカスティーリャ王国の公女エリナー・オブ・カスティルで、37年連れ添って16人の子供に恵まれている。彼女は1290年に亡くなっているが、エドワードは彼女の死を大変悲しみ、彼女を偲ぶ十字塔「エレノア・クロス」を建てさせている。二番目の妻はフランス国王フィリップ4世の異母妹マーガレット・オブ・フランスで、フランスとの講和の際に結婚。3人の子供に恵まれた。実に44歳の年の差婚であったが、夫婦仲は良好だったという。また、マーガレットは夫の怒りに触れた者たちの取りなしを行っており、「最愛の配偶者、英国女王マーガレットのとりなしでのみ赦免する」との文章が残っている。

このように優れた王と優しい夫という顔を持っていたが、ウェールズスコットランドからしてみれば冷酷な侵略者であった。ウィリアム・ウォレスを主人公とした映画『ブレイブハート』ではこの側面が強調され、残虐非道な王として描かれている。

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