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ジョージ6世

じょーじろくせい

ジョージ6世とは、イギリス及び英連邦王国のウィンザー朝第3代目国王。
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概要編集

フルネームはアルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ・ウィンザー


イギリス及び英連邦王国のウィンザー朝第3代目国王。インドの植民地時代はインド帝国皇帝も兼任していた。

在位期間は1936年から1952年。誠実な立憲君主であり、『善良王』として国民から愛された。


生涯編集

王子時代編集

1895年12月14日、ヨーク公ジョージ王子(後のジョージ5世)の次男として生まれた。幼少期は言葉が遅く、さらに左利きかつX脚であった。幼少時に同様の特徴をひどく馬鹿にされて育った父ヨーク公は、彼を困難に負けないジョンブル魂を持った男に育てようとスパルタ教育(という名の虐待)を敢行。例をあげると

・食事の最に左手に長い紐を付けられ、左手を使おうとすればヨーク公から乱暴に引っ張られた。

・痛みを伴うX脚矯正ギプスを一日数時間着用することを義務付けられた。

さらには乳母からも兄弟ともども虐待を受け、ついには酷い吃音症を患ってしまった。

青年期には吃音症のために殆ど公の場に出ることは無く、また次男であるために王位継承の可能性も低かったため、人前に出無くても済む職場を求め、父と同じく海軍士官を志した。ところが成績は奮わず、士官学校卒業時の成績は最下位であった。それでも何とか卒業し、晴れて海軍士官候補生の道を歩み出したアルバート王子であったが、直後第一次世界大戦が勃発。戦艦勤務であった王子も当然、最前線へと向かうことになり、同大戦唯一最大の艦隊決戦となたユトランド沖海戦に参加した。しかし、乳母の虐待の影響で弱くなっていた王子の胃腸は、戦闘の恐怖による過度のストレスに耐え切れず、十二指腸潰瘍を発症して王子を医務室の住人にしてしまった。この件で艦隊勤務は流石に無理だと悟ったのか、1918年の空軍創設と同時に王子は空軍に籍を移し、そこで基地の本部スタッフという当たり障りのないポストに追いやられた。


翌1919年、第一次世界大戦が終結したのを期にアルバート王子はケンブリッジ大学に入学、歴史学や経済学、政治学を学んだ。

さらに翌1920年には父ジョージ5世から、若き日の父と同じヨーク公を賜り、以降は産業福祉会会長として、工場労働者の待遇改善などに精力的に活動した。


1923年、二度フラれた上の二年間に及ぶストーカー紛いの精力的な求婚の末、エリザベス・ライアン女史を公妃に迎えた。エリザベスは貴族の娘であったが、これまで王族の妃は海外王室から迎えるのが慣例だったため革新的なものと受け止められた。この結婚は国内外から注目を集め、ヨーク公夫妻の人気は非常に高まった。


一方、この頃に至っても重度の吃音症は改善されず、ヨーク公は公の場でのスピーチなどをできるだけ避けていた。しかし王族である以上避けられない公務は存在する。1925年には英国万国博覧会での閉会スピーチを強いられることとなった。ヨーク公自らのスピーチである以上、聴衆は起立静聴を求められ、その厳かな雰囲気はヨーク公を押し潰さん程の緊張となって公を襲った。結果、ヨーク公の吃音症は遺憾無く発揮され、スピーチは英国史に残る惨事として散々の結果となった。

エリザベス公妃はそんなヨーク公を憂いて数名の言語セラピストを手配し、その中でヨーク公は生涯の友人となるライオネル・ローグと出会う。当時言語療法は胡散臭い民間療法と思われていたが、ローグの型破りな治療は効果を見せ、二年後の1927年にキャンベラで行ったオーストラリア連邦議会の開会の辞では、ほとんど吃らずにスピーチをこなすことができた。この治療を通じてヨーク公とローグは固い信頼関係で結ばれ、のちにローグを自身の戴冠式に招待するまでになった。


この頃、父ジョージ5世の体調が徐々に悪化していた。長年の喫煙歴が祟り、肺気腫や気管支炎など呼吸器の疾患を多数併発していた上、大戦中の落馬による負傷の後遺症も国王の体を蝕んでいた。国王は次第に長期療養を繰り返すようになり、その間の公務をヨーク公の兄であるエドワード王太子が代わるようになっていた。しかし、同時にエドワード王太子は米国人で離婚歴を持つウォリス・シンプソン夫人と、結婚を視野に入れた交際を始める。

元々自由奔放に過ぎ、舌禍事件や女性スキャンダルに事欠かなかったエドワード王太子であったが、イギリス国教会は、国教会の首長たる英国王の配偶者に離婚暦のある者を認めてはいなかったため、将来的に国王に即位する王太子にとってウォリスは、米国人、バツイチ、現在進行形で人妻と、数え役満級の相手であった。元々人妻趣味の王太子であったが、この交際によって国王との関係は最悪になり、このころ二人の言い争いは絶えなかったという。

一方で引っ込み思案ながら誠実で生真面目なヨーク公と国王との関係は良好で、また王は孫のエリザベス公女を溺愛していたという。


1936年、ついにジョージ5世が崩御する。これに従いエドワード王太子がエドワード8世として即位、国王にはまだ子息が無かったため、ヨーク公の王位継承順は第一位に繰り上げられたが、流石に国王となればエドワード8世も行動を慎むだろうと誰もが考えた。


しかしエドワード8世の暴走は止まらなかった。

父が崩御し、ストッパーを喪失したエドワード8世は即位式に立会人としてウォリスを招待、王室は彼女を国王の『ただの友人』として扱うことで大目に見た。しかしその後も王室ヨットで旅行に出る、公の場にペアルックで現れるなど、積極的に恋愛関係をアピール。ついにはボールドウィン首相ら政府要人も出席するパーティの席上で、ウォリスの夫アーネスト・シンプソンに「早く離婚しろ!」と脅迫し暴行を加えるという事件が発生した。

此処に至ってボールドウィン首相は国王に「王とシンプソン夫人の関係がこれ以上続くようならば、王位や王制そのものに関わる問題となる」という、事実上ウォリスと王位の二者択一を迫る旨を文書で通告、これに際して国民の間では「国王はウォリスとの婚約を取り消すらしい」との噂が広まったが、36年12月10日に首相が庶民院で発表したのはエドワード8世退位の詔勅であった

翌11日には国王はラジオで「愛する女性の助けと支え無しには、自分の望むように重責を担い、国王としての義務を果たすことはできない」という退位文書を読み上げ、退位に伴う儀礼もそこそこに12日深夜、日付が代わるのを待ってイギリスを出国してしまった。


国王時代編集

一年足らずのうちに父が死に、兄が退位し、ないと思われていた自分の即位が目前に迫っていたヨーク公は大いに動揺した。吃音を克服したとはいえ、今まで出来るだけ表舞台に立つことを避けてきた身に、突然国王をやれといわれたのだから無理もない。即位の決定を受けた際、ルイス・マウントバッテン伯爵に対して

「これは酷いよ。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。子供の頃から国王になるように教育を受けていたのはデイヴィッド(エドワード8世)の方なんだから。国事に関する書類なんかこれまで一度も見たことなんか無いんだよ。そもそも、私は一介の海軍士官に過ぎないんだ。海軍将校としての仕事以外は、これまで何もやったことの無い人間なんだよ」

とこぼし、母に対しても同様のことを泣きじゃくりながら訴えたという。全くもって同情する。

1936年12月12日、ヨーク公はセント・ジェームズ宮殿で「ジョージ6世」としての即位、1937年5月12日にはウェストミンスター寺院で戴冠式を執り行い、王位に就いた。よりによって時代は欧州情勢風雲急を告げる1936年、大陸ではファシズムが台頭を始めており、国王に求められる責任も重大なものとなっていった。それに伴う重度のプレッシャーとストレスにより吃音症は再び悪化。それでも誠実にして真面目なジョージ6世は政務に立ち向かい続けた。


即位当初、イギリス政府はネヴィル・チェンバレン首相を中心にドイツに対する宥和政策を展開しており、第一次世界大戦の時の様な苦しみを国民に味わわせたくないと考えていたジョージ6世もこれに協力した。

第二次世界大戦の端が開くと一転してドイツとの対決を決意、ウィンストン・チャーチル首相と共に抗戦に徹した。しかしドイツは電撃戦を展開してフランスを蹂躙、同地に展開していた英軍も大きな損害を受け、さらにフランスに軍港を得たドイツは無制限潜水艦作戦を展開したため、イギリスは飢餓寸前に追い込まれていた。首都ロンドンにも連日ドイツ空軍機が飛来し、空襲を繰り返したため、イギリス政府は王家の疎開を提案。これに対しジョージ6世はエリザベス、マーガレット両王女のみをスコットランドへ疎開させ、自身はエリザベス妃とともに「国民が皆危険に晒されているのに、その君主である自分達が逃げ出す訳にはいかない」としてロンドンに留まった。

当然、ドイツ側としてもジョージ6世を爆殺してしまうことは不利益であり、バッキンガム宮殿などは爆撃対象から外れていたが、勿論誤爆の危険はある。現にバッキンガムは爆撃の直撃を受けており、ジョージ6世自身も命を落としかけたが、それでもジョージ6世は拳銃を手にバッキンガムに留まり続け、ラジオで国民を激励し続けた。

バトルオブブリテンに勝利し、ロンドン空襲の危機がひとまず去ると、ジョージ6世は今度は北アフリカ、マルタ島など最前線への視察、激励に奔走、さらにドイツの攻撃により被害を受けた各地への慰問も精力的に行い、兵士国民を大いに勇気付けた。かくしてジョージ6世は多大な国難を乗り切る精神的な支えとなり、国民と王室との間に親密な関係を構築した。


1945年5月8日、ドイツ降伏。ここに5年8ケ月に及ぶヨーロッパの戦いが終結し、イギリスはこの多大な国難を乗り切った。当時、イギリス国内は食料、衣服の配給制が続く厳しい経済状況であったが、この日バッキンガム宮殿は100万人以上の群集に取り囲まれ、群衆は口々に「我らの王を!(We want the King!)」と連呼、ジョージ6世夫妻はチャーチルと共にバルコニーから手を振って応え、エリザベス、マーガレット両王女は群集に混ざり、共に戦勝を祝った。王とともに苦難を乗り越え、今日からは王とともに歩む、困難でも希望にみちた復興の治世が始まると、誰もが信じていた。


しかし戦後間もない1947年、戦後処理の激務の中でジョージ6世は徐々に体調を崩し、翌年には動脈硬化を発症、さらに長年の喫煙が祟り肺癌を併発してしまう。1951年に左肺を摘出してからは小康状態が続いたものの、ついに全快することなく、1952年2月6日未明、療養に訪れていたノーフォークのサンドリンガム御用邸でひっそりと崩御。56歳没。棺には、チャーチル首相からの花輪が置かれ、首相直筆の「勇者へ」の言葉が添えられていた。


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