概要
リチャード1世/Richard I(1157年9月8日~1199年4月6日)
プランタジネット朝第2代のイングランド国王(在位1189年~1199年)。フランス王臣下のノルマンディー公、メーヌ伯、アンジュー伯、アキテーヌ公でもあり、フランスの半分を領有していた。
嫡子はなく、末弟ジョンが王位を継いだ。
兄弟姉妹
長兄:ウィリアム(夭折した)
次兄:ヘンリー(若ヘンリー王)
長姉:マチルダ(ハインリヒ獅子公妃)
長弟:ジェフリー(ブルターニュ公ジェフロワ2世)
長妹:エレノア(カスティーリャ王妃)
末妹:ジョーン(シチリア王妃)
末弟:ジョン(ジョン欠地王)
妻:ベレンガリア(ナバラ王女)
経歴
1157年9月8日、オックスフォードでヘンリー2世とアリエノール(アキテーヌ女公)の間に第3王子として誕生。
1169年、フランス王ルイ7世の娘アデル(アデライド)と婚約。
1172年、アキテーヌ公となる。
1173年3月、兄ヘンリー(若ヘンリー王)がヘンリー2世に反乱を起した。母アリエノールはリチャードとジェフリーを兄ヘンリーに加勢させ、イングランドのソールズベリーに監禁される。
9月、ヘンリー2世と和解する。ポワトゥー伯となる。
1179年、フランス王フィリップ2世の戴冠式に出席。
1183年春、ヘンリー2世と結び、兄ヘンリー、弟ジェフリーと戦う。
6月、兄ヘンリーが病死。ヘンリー2世の共同君主となったが、代わりにアキテーヌを弟ジョンに譲渡するよう命じられ、これを拒絶した。
1186年、弟ジェフリーが、フィリップ2世の開催した馬上槍試合での怪我により死去。
1188年、ヘンリー2世とフィリップ2世の和平交渉中、フィリップ2世に臣従の誓いをし、公然と父と敵対した。
1189年、ヘンリー2世が病死し、イングランド王に即位した。ノルマンディー公となる。
母アリエノールの監禁が解かれる。
1190年、フィリップ2世や神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世等と共に、聖地エルサレム奪回(第3回十字軍)へ向け、遠征に出発。皆、大国の王たちだったが、それぞれ思惑があり反目し合った。
先発した十字軍総司令のフリードリヒ1世は次々と武功を挙げたが、キリキアのサレフ河で溺死。
1191年3月30日、母アリエノールがベレンガリアを連れ、シチリアに到着。
5月12日、キプロス島リマソルでベレンガリアと結婚。
7月17日、アッコンを攻略。女性や子供を含むイスラム教徒の市民2,700人を捕虜にし、後に全員処刑した。
オーストリア公レオポルト5世が功績を誇示し城壁に旗を掲げたのをリチャードの側近が叩き落としたため、レオポルト5世は激怒して帰国。遺恨を残す。
7月31日、フィリップ2世は病気を理由に自国へと帰ったため、単独で十字軍を指揮することになる。
10月8日、弟ジョンがロンドンで会議を開き、ウィリアム・ロンシャンを罷免。リチャードが海外で亡くなった場合、ジョンが後継者と決められる。
1192年2月11日、母アリエノールがイングランド入国。諸侯にリチャードへの忠誠を誓わせる。
9月2日、先に帰国したフィリップ2世が、ジョンの王位簒奪を支援しているとの知らせを受け、イスラム側と休戦条約を結ぶ。リチャードはサラディンの指揮するイスラム勢と激しく戦ったが、エルサレムに到達することはできなかった。
10月9日、海路で帰路につく。アドリア海で嵐に遭ってイギリス艦隊はバラバラになり、陸路での帰国を試みる。
12月20日、ウィーン近郊でレオポルト5世に捕らえられた。
1193年4月19日、母アリエノールのもとにリチャードからの手紙が届き、「身代金15万マルクと人質を用意すれば釈放される」と書かれていた。
5月23日、身柄を神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡される。
6月29日、ハインリヒ6世は身代金の支払いのみで解放することに合意。
夏、フランス王フィリップ2世がノルマンディーを侵略。
1194年1月6日、身代金を持った母アリエノールがドイツに到着。
2月2日、リチャードはハインリヒ6世に臣従の誓いをし、年間5,000ポンドの譲渡を約束。解放される。
3月23日、群衆に迎えられてロンドン入り。イングランドの内政をヒューバート・ウォルターに任せる。ジョンに対し、5月10日までに出頭しなければ、王国から追放すると宣言。
5月12日、ポーツマスを出航しフランスの領地へ向かう。 リジューで出頭してきたジョンを許す。
1194年、フランス各地を転戦し、フランス王フィリップ2世に奪われた城を次々と奪回。
8月1日、フィリップ2世と講和した。
1195年7月、イスーダンで小競り合い。
11月8日、フィリップ2世と新たな休戦締結。
1196年1月、フィリップ2世と新たな休戦締結。
ガイヤール城の築城を開始。
1197年4月15日、フランス側からサン・ヴァレリーを奪取。
9月28日、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世が死去。後継者に推戴されたが断り、ハインリヒ獅子公と姉マチルダの子のオットー(オットー4世)を推薦。
1198年、3頭の獅子の紋章を制定。
9月28日、ジゾール近郊でフィリップ2世と交戦。
1199年1月13日、フィリップ2世と5年の休戦協定締結。
3月26日、肩にクロスボウの矢を受ける。
4月6日、傷口の壊疽で死亡。享年41歳。ジョンが後継者となった。
逸話
- 伝説の宝剣「エクスカリバー」を手にしたと称していた。
- 王としてイングランドに滞在した期間は6ヵ月間で、その生涯の大部分をフランスで過ごした。内政はヒューバート・ウォルター(カンタベリー大司教)やウィリアム・ロンシャン(イーリー司教)、ウィリアム・マーシャル(ペンブルック伯)などに支えられた弟ジョンが代行した。イングランド方言(英語)はあまり話せず、リシャール(フランス語で「リチャード」のこと)と自称。
- 勇猛果敢で剛直な反面、自己中心的で冷酷な面もあった。女子供も容赦なく殺したため、十字軍の被害を受けた地域では子供が言う事をきかないと「リチャードがさらいに来る」と脅した。
- 十字軍の遠征途上、シチリアで義理の息子タンクレードに人質にとられていた妹ジョーンを解放したが、フィリップ2世(既婚)がジョーンに惚れてしまうなどゴタゴタがあり、フィリップ2世の姉アデルとの婚約を破棄し、対立の原因となった。
- シチリア王に対する保護の約束も交わしたため、シチリア支配を狙う神聖ローマ皇帝との関係も悪化した。
- 宗教にはあまり関心がなく、アーディル王子(サラディンの弟)との交渉中、「余の妹と結婚してキリスト教徒になるのはどうか」と提案した。
- ヤッファの戦いで、乗馬を討たれ徒で戦うリチャードを見かね、アーディル王子は王者の面目が立つよう名馬2頭を贈った。リチャードは悪びれずにそれに乗って戦った。
- 王妃ベレンガリアとの間に子は無く、弟のジョンを後継者にせざるを得なかった。キリスト教で御法度の男色を懺悔したこともあり、同性愛者説が流布したこともあるが、庶子にフィリップ・ド・コニャックがいた。
- 3頭の獅子をあしらったイングランド王室紋章を制定。現在の英国国章やイングランドサッカー協会の紋章など、幅広く用いられている。
- 文才にも優れ、吟遊詩人や騎士が囚われたリチャードと歌のやり取りをしたという伝説が残る。単旋律歌曲『囚われ人は決して』の作者とも言われる。
- ルーアン大聖堂を愛し、自分の心臓を埋葬するように遺言した。遺骸はフォントヴロー修道院、脳と臓器をシャルー修道院に埋葬させ、イングランドには彼の遺体は葬られなかった。
- 生前から吟遊詩人にその勇猛な生き方を歌われ、死後には英雄視された。ロビン・フッド等の伝説・創作にも優れた騎士にして名君として登場する。
リチャード1世をモチーフとしたキャラクター
最後のレストランのリチャード1世
「ヘブンズドア」ではなく遊園地にタイムスリップした。アーサー王伝説にあやかって名付けた『エクスカリバー』という剣を持っている。
蒼き狼と白き牝鹿シリーズのリチャード1世
「ジンギスカン」でプレイヤー武将として初登場。フィリップやハインリヒ、サラディンを相手に戦い、聖地奪還ばかりか世界征服を狙う“獅子心王”。元朝秘史、チンギスハーンにも登場して活躍するがいずれも武力が最高で政治力が最低と言う極端なステータスである。おそらく、イギリスで政務を執ったのが1年にも満たなかった事によるものと思われる。統治する国は同じ英国なのだが、イングランド(ジンギスカン)、アンジュー朝(元朝秘史)、イギリス(チンギスハーン)と国号が異なる。
アイヴァンホーのリチャード1世
第三次十字軍で活躍するがオーストリア公レオポルド(黒幕はフィリップ2世)に捕まり、主人公ウィルフレッドがその問題に絡む戦いに奔走するという創作が加味されている。1997年に放映されたイギリスのテレビドラマでは、リチャードの無責任と我儘がジョンの謀反を招き、臆病者のジョンが政治に励んだのでイギリスは滅亡を免れたという史実を投影しており、従来の善玉史観とは異なった解釈も存在する。
ディズニー映画のリチャード王
ロビンフッドに登場する、イングランド(動物の国)を治めるライオン王。史実で彼が行った悪政や短所(我儘で冷酷非情な気質)は全部弟のジョンにスライドされており、リチャードは絶対善の名君として描かれる。プリンス・ジョンの項目を参照されたし。
Fateシリーズのリチャード
Fateシリーズのひとつ『Fate/strangeFake』にて、セイバーのクラスのサーヴァントとして登場。詳細はセイバー(Fate/strangeFake)を参照。
関連タグ
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