英: British Royal Family
血脈
王室にはイングランド七王国の1つ・ウェセックス王国や、ノルマン朝・プランタジネット朝・ランカスター朝・ヨーク朝・テューダー朝・ステュアート朝・ハノーヴァー朝・サクス=コバーグ=ゴータ朝・ウィンザー朝などといった、中世イングランドで栄えた多くの王族・貴族の血筋や、イングランドとの合併前のスコットランド・ウェールズ・その他フランスやドイツ等の王室の血筋も脈打っている。
後述する通り、英国王位はシステム上女王が自動的に誕生する可能性がある。その場合、女王の子の代においては女王の夫(つまり、次期国王の父)の実家に因んだ王朝名に自動的に変更されることが基本である。
近代ではハノーヴァー朝がヴィクトリア女王の長男・エドワード7世即位に伴い、「サクス=コバーグ=ゴータ朝」(ドイツ名「ザクセン=コーブルク=ゴータ」、同国公子であったアルバート公子がヴィクトリア女王の夫でエドワード7世の父であった)に変更されている。
同名は第1次大戦期に対独感情に配慮して「ウィンザー朝」となり、そのまま当代のエリザベス2世まで続いた。前述の法則によれば、次代・チャールズ国王が即位した場合王朝名は変更となる予定であったが、法改正により王朝名自体は維持されるとしている。
なお、チャールズの父であり、エリザベスの夫であるエジンバラ公フィリップ殿下は元々ギリシャ王室出身であるが(大元はグリュックスブルク公家分家であるデンマーク王室グリュックスブルク家)、英国に帰化する際母方の家名であるマウントバッテンの家名を選択した。さらに、チャールズ国王は偉大な母に配慮し、その家名を両親から取ったマウントバッテン=ウィンザーの二重名としている。
2022年9月8日にエリザベス2世が崩御し、チャールズが新国王「チャールズ3世」として即位した。前述の法改正もあり、次期王朝名は「マウントバッテン=ウィンザー朝」となるか、「ウィンザー朝」となるかは未定(王室の家名は「マウントバッテン=ウィンザー家」に変更)。
定義
英国において、王族範囲には明確な定義はないが、少なくとも「陛下」・「殿下」の敬称を有する人物は、一般的に王族であると考えられている(なお、国王本人は王族に含めないと考える)。
有力な指針の1つとされているのが、1917年11月にジョージ5世により発表された、王子・王女の身分と陛下・殿下の敬称運用方針を定めた勅許状であり、これによれば王子・王女の身分と陛下・殿下の敬称は、国王・国王の子供・国王の息子の子(孫)・プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズの君主、原則として王太子の称号)の長男(子)の長男(孫)に与えられるものとされている。
ただし、例え出生時には王族と認められなくても、時が経てば王位継承などにおいて国王またはその近親となることが確実である人物が存在し得る場合などには、必要に応じて王族範囲が広げられる場合がある。
父親が爵位を複数持つ場合において、子(ほとんど長男に限られる)は父親が持つ第2爵位称号を儀礼称号として名乗る。これはイギリス貴族において一般的な制度であるが、王子・王女の称号を持たない(主に傍系の)王族もこのシステムを持って儀礼称号を称することが多い。一方、王子・王女の称号は貴族称号より優位とされるため、この号を持つ者は父親が爵位を持っていても儀礼称号を名乗ることは原則としてない。
近年ではチャールズ現国王に与えられたものが、勅令によって例外的に王子・王女と認められた例である。
当時王女であった母・エリザベス2世の子として、勅許状の範囲に含まれなかったものの、祖父・ジョージ6世には男子がおらず、後述する王位継承法によってチャールズが次々期国王となることが半ば確定しているために与えられた。
この勅令まではチャールズは父・エジンバラ公爵フィリップ王子に与えられた爵位に基づき、その2番目の称号に当たるメリオネス伯爵の号を儀礼称号として名乗るしかなかったが、結果的に生誕前より王子を名乗ることが確定した。
なお、2013年以降、当時の女王・エリザベス2世による勅許状修正が行われた。新たなる勅令によればプリンス・オブ・ウェールズの長男の子は全て王子・王女を名乗れることとなった。これまで、直系尊属の最近親の王にとって曾孫に当たる人物はその内の長男(エリザベス2世にとっては嫡孫・ウィリアム王子の長男・ジョージ王子がこれに当たる)以外は勅許状の王子・王女に含まれない立場であった。
しかし、女王がまだまだ健在で治世がこれからも続くと考えられること、加えて王位継承法が後述の通り改正されたことで、第1子に王子を名乗れない女児が誕生しても直系の次々々期国王となる立場となったことから、ジョージ王子出生前に勅許状自体に改正が行われている。これに伴い、妹・シャーロット王女。弟・ルイ王子も自動的に王子・王女となった。
なお、チャールズ国王の次男・サセックス公爵ヘンリー王子の子は、2023年3月限りでチャールズ国王により王子・王女の称号が付与された。彼らはチャールズ即位に伴い、自動的に王子・王女の称号が付く立場ではあったが、エリザベス女王治世下においては勅許が出ず、それらの称号は付かなかった(女王存命中にアーチー・リリベット両名が誕生)。
詳細は不明であるがチャールズ国王は王室スリム化を掲げており、場合によってはヘンリー王子の子に王子・王女の号が授けられない場合もあった。これは、勅許状あるなしに関わらず称号を与えないことも王の特権の1つとされるためである。しかしながら、前述の通り2023年3月を以て称号が正式に付与された。
なお、アーチーは女王存命中も本人の権利により父の第2称号「ダンバートン伯爵」を儀礼称号として名乗れる立場にあったが、諸々の事情により名乗る予定はないとされ、単にマスター・アーチーとのみ呼ばれるとされていた。
ちなみに、殿下(王室の殿下、His/Her Royal Highness、HRH)を名乗ることは王子王女の称号とは別に権利が付与される。王室では2023年現在、前述したサセックス公爵一家と、国王の弟・ヨーク公爵においては(諸般の事情で公務を引退したため)この称号を認めていない。
本人または親の希望により敢えて王子・王女の号が与えられていない例も存在する。エリザベス2世の3男・エジンバラ公爵エドワード王子の子は「王の息子の子」として王子・王女号を通常なら与えられる予定であるが、これをエドワード王子の側が辞退したため。エドワード王子の長男・ジェームズは父の第2称号に基づき儀礼称号「ウェセックス伯爵」(父の公爵位叙任前はセヴァーン子爵)と称され、長女のルイーズはレディの尊称を付けられるのみである。
逆の例も僅かながら存在する。ヴィクトリア女王の曾孫の1人で、女王の3男・コノート公アーサー王子(この人は明治日本において最初に迎えられた英国王族でもある)の嫡孫・第2代コノート公アラステアは、上記の勅許状によって王子の称号を剥奪された人物である。
王位継承順位
英国王位継承順位は、ステュアート朝の血筋を引くもののうち、下記の条件に当てはまる全人物に与えられる。そのため王族でなくとも、その血を引いてさえいれば王位を継承する可能性はあり、従って国王位継承権者は世界中に存在する。
他国国王が英国王位継承権を持っていることも多い(ドイツ(プロイセン)・オランダ・ノルウェー・デンマーク・スウェーデン・ギリシャ・ロシアなど)
姉が先か、弟が先か
英国王位継承法は、長らく「兄弟間男子優先制」であった。これは、まず第1に国王の直系子孫が国王兄弟姉妹や甥姪に優先して王位を継承するものであるが、兄弟姉妹の中では女姉妹に対して男兄弟が優先して王位を継承するものである、というシステムである。
つまり、国王の子が娘だけであったとしても、国王の弟やその息子より上位の継承順位を持つ。しかし、兄弟の中では姉よりも弟が上位の継承順位を有する。このため、近代においても男の継承者が他にいてもヴィクトリア女王やエリザベス2世女王の様な女王が誕生することがままある。
また、2013年の法改正以後は、欧州の大半の王室同様、性別に関わらず第1子が上位の継承順位を有する様になった。これ以後に生まれた者に限り、姉が弟より上位の継承順位を有する。なお、混乱が生じるため、それ以前の順位は以前のままである。
この法改正により、当時の次期国王・チャールズ王太子の第1子・ケンブリッジ公爵ウィリアム王子の第1子が女児であっても、その子がチャールズ・ウィリアムの次の王位継承者となることが確定となったが、この第1子は男子であった。彼はハノーヴァー朝以来の国王伝統名「ジョージ」の名を授かっている。
カトリック継承権とジャコバイト
キリスト教カトリック教徒となった者は自動的に継承順位が剥奪される。これは英国国王がプロテスタントの一派である英国国教会の祖であることと、以前王位を追われたジェームズ2世国王とその直系子孫がカトリック教徒であるためで、ジェームズ2世の子孫を排除し、その後国王となったウィリアム3世(オラニエ公ウィレム3世)及び現行英国王室の祖であるジョージ1世王位継承を正当化させるための手段である。
なお、以前はカトリック教徒と結婚するだけで継承権は喪われたが、結婚に関する規定は2013年の法改正で消滅した。ただし、国王となるには本人が英国国教会信徒である必要性がある。
なお、ジェームズ2世直系子孫は現在でも存在する。彼らもまた英国国王(正しくはイングランド及びスコットランド王、グレートブリテン王国は彼らを排除するために2国家が統合したものでを僭称し、しばしば本国と戦争となった。しかし、19世紀になると彼らの勢力も衰退し、以降は少数の人が支持するのみとなり、やがては血縁上の後継者を支持者が勝手に「王」とするのみとなるなど、名目上のものでしかなくなっている。
彼ら支持者を、ジェームズ2世の名のラテン語読みから来る「ジャコバイト」と称する(なお、フランス革命で活動した「ジャコバン派」と紛らわしいが関係はない。こちらは集会所としていた修道院の名から取ったものが語源の由来)。
そして彼らが支持する「王」を便宜上「ジャコバイトの王」と称する。
現在の「ジャコバイトの王」はバイエルン公フランツ(イギリス風であると「フランシス2世」)。ただし、王位継承活動も、王位請求も行っていない。
彼には子供がいないため、バイエルン王王位請求者たるバイエルン公位と共に弟マックス・エマヌエル(英国風であるとマックス・エマニュエルか)に引継がれる予定である。英国王位は女子継承を認めているため、マックス・エマヌエルの長女・ゾフィーがその後を継ぎ、さらにその後はリヒテンシュタイン公国の次々期継承者・ヨーゼフ=ヴェンツェル侯子が引継ぐとされる。かの王位は次はどこに移って行くのであろうか?
ハノーファー選帝侯位
ジョージ1世は先代の共同統治王であるウィリアム3世と妻・メアリー2世(ジェームズ2世の娘)及びその妹・アン女王に子が授からなかったことから、前述する条件に沿う最上位継承権者として招聘された。彼はウィリアム3世・メアリー2世・アンのはとこであり、3人の祖父で処刑された王・チャールズ1世の姉の孫であった。
ジョージ1世はイギリス国王となる前からブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯であり、宮廷所在地からハノーヴァー朝の名がとられた。
この同君連合はナポレオン戦争を経て選帝侯位がハノーファー国王となった後ジョージ1世の玄孫ウィリアム4世の代まで続いたが、ハノーファーは女子の王位継承そのものを認めていなかったため、ウィリアム4世死後、英国国王は彼の直ぐ下の弟・ケント公の子・ヴィクトリア、ハノーファー王位はケント公のさらに下の弟・カンバーランド公アーネストが継承し、王位は分離された。
その後、ハノーファーはプロイセンに統合されるも、アーネストの曾孫がドイツ皇帝の娘婿となり同族が持っていたブラウンシュヴァイク公位を継承する。第1次世界大戦でイギリスに敵対したことで英国王族資格と爵位(カンバーランド公爵位)を失った。ただし、王位継承権は現在もあるとされる。
非嫡出子
もう1つの条件として非嫡出子に王位継承権は与えられない。これは一般に近代の王室では世界的に見られる現象である。
英国王族に使用される爵位
英国王族は基本的に、国王から爵位を授かり英国貴族に列する。これらの爵位は原則的に臣民爵位とは別個に考えられており、厳密にいうと様々な違いがあるものの(後述する通り何れは臣民爵位と同義に利用することも踏まえていると考えられる)大雑把には日本の宮家の様なものと考えると分かりやすい。
英国貴族称号は長男継承が原則であり、女子継承が認められているものを除いてはその家の男子がいなくなれば断絶する。これは王族爵位も同じであり、また時代が下って新たな王子が成育した時、失われた爵位を再度与えることが多い。
現在の王族爵位は「イングランドの地名+公爵」・「スコットランドの地名+伯爵」・「北アイルランドの地名+男爵」の3称号1セットで与えられる事例がほとんどである。
ハノーバー朝時代にはイングランド・スコットランド連合王国制定から間もなく、領地称号はどちらも公爵とされることが多かった。そのため、当時の王族は「ケント=ストラサーン公爵」(ケントはイングランド、ストラサーンはスコットランドの地名)と双方の地名の連合となった公爵位を与えられる事例が多数見受けられている(サセックス公爵オーガスタス王子などの例外あり)。
しかしながら、この慣例はヴィクトリア女王の嫡孫・アルバート=ヴィクター王子(クラレンス=アヴォンデイル公爵)を最後に途絶える。弟・ジョージ王子はヨーク公爵に叙されたが、同時に叙爵されたスコットランドの地名に基づく爵位はインヴァネス伯爵であり、以降他王子も公爵位2地名連立は行われていない。
現在も連立地名爵位を受け継ぐ男系子孫が残るのはカンバーランド=テヴィオットデイル公爵家(これはハノーバー朝男系最上位の旧ハノーバー王室・ブラウンシュヴァイク公室でもある)のみであるが、同家は第1次世界大戦をドイツ方で戦ったために爵位を剥奪されており、現在名乗っていない(爵位請求によってこの爵位は回復可能とされるが、ハノーバーとブラウンシュヴァイクの君主家でもあり当代当主は完全にドイツ人として生活しているため、請求していない)。
なお、最上位公爵号が必ずしもイングランド地名という訳ではない。例えばエジンバラ公爵位のエジンバラはスコットランドの地名であり、この場合従属爵位としてイングランド地名の伯爵位が付けられることが多い。
このような3地区毎の称号が授けられる理由としては、王族として各地に公務に出掛けた際、イングランド(とウェールズ)ではイングランド地名の爵位を、スコットランド・アイルランドでもそれぞれの地名の爵位を名乗るようにとの配慮もある。例えば、ウィリアム王子ならイングランドでの公務ではケンブリッジ公爵を、スコットランドではストラサーン伯爵を名乗る。
なお前述した通り、王子・王女号を持たない王族の子は儀礼称号としてやはり第2位の称号(多くは伯爵)を名乗るが、単に儀礼のためのものであり本来は父親に付随する称号であり、地方での公務の際はロード(Lord、卿)を名乗るなどして称号のバッティングを回避する。そもそもこうした儀礼称号を有する頃には、傍系王族として公務から外れる程本家と親等が離れる場合がほとんどである。
従って、王子・王女でない王族の代には一般の英国貴族としてシフトして行くことを視野に入れた爵位授与システムともいえる。
プリンス・オブ・ウェールズ
王族称号として、プリンス・オブ・ウェールズだけは王太子に与えられる特別な称号とされる。その他の爵位としてコーンウォール公爵・ロスシー公爵・チェスター伯爵・キャリック伯爵などは同じく王太子のみ与えられる爵位とされている。
ヨーク公爵
ヨーク公爵はその時々に当主がいない場合は時の国王の次男に与えられることが多い。本来他爵位の様に歴代ヨーク公子孫によって継承されて行くべきであるが、何故かヨーク公爵には男子が産まれないことが多く、男子が産まれても逆にヨーク公の兄に当たる人物に何らかの事故があり公爵自ら王位に就くことで、爵位が王冠に統合され結局再授与ということとなる。
ここ数百年で親子が共にヨーク公であった事例にジョージ5世・6世がいるが、5世は兄早世で王位に就いたためヨーク公位を長男(後のエドワード8世)に引継げず、改めて初代として次男・ジョージに授与する形となった。後にこの息子の方のジョージも兄退位により王位に就いている。
現在のヨーク公爵はチャールズの弟・アンドルーであるが、彼にも男子がいないため、彼の死後は再度この公爵位は誰かに授与されるのを待つ状態となる。
その他
この他、国王の息子であるなら公爵位が与えられ、その爵位はその王子達の実子に引継がれることが多い。現在第2世代が帯びている爵位にグロスター公爵・ケント公爵がある。
他の爵位は、現在国王によってその者自身が爵位を与えられた第一世代のもの。これにはエジンバラ公爵(エリザベス女王の夫→女王の三男(チャールズ国王の弟))・ケンブリッジ公爵・サセックス公爵・ヨーク公爵・ウェセックス伯爵がある。
基本的に王族に与えられる爵位は最上位の公爵であるが、エリザベス女王の三男エドワード王子は結婚当時、何れ父フィリップが保有していたエジンバラ公爵位を与えられる予定とされたため、
伯爵位であるウェセックス伯爵位を授与された。エジンバラはスコットランドの地名であることから、イングランドのウェセックスが選ばれたのであるが、女王夫妻が共に長命であったため、エドワードにはスコットランドの地名に基づく爵位が存在しなかったことから、2019年にフォーファー伯爵にも叙されている。
なお、本来爵位を世襲するのは長男であるため、父・エジンバラ公位はチャールズが世襲するものであり、2021年にフィリップ公が薨去すると実際にチャールズが継承した。この後、チャールズが母崩御を経て国王即位時、貴族称号は一部特殊な爵位を除いて王の名の下に統合され消失することから、改めてエドワードに新規のエジンバラ公位を授与する、という少々ややこしい手続きを踏む必要があった。2022年の母王崩御を経て兄が即位、エジンバラ公位が消失したことで新規授与が可能な状態となり、2023年3月10日のエドワードの誕生日をもってようやく彼はエジンバラ公爵を授与された。
また、王族であっても、例えば次男の次男などは何も与えられない。ケント公爵家マイケル王子は王子の称号を有するが、ケント公爵家次男であるため、無爵である。
他にもクラレンス公爵・カンバーランド公爵・オールバニ公爵・コノート公爵・エクセター公爵などが王族に与えられる爵位として知られるが、現在継承者はいない。
カンバーランド公とオールバニ公にはかつての継承者の子孫がいるが、上記の第一次大戦により爵位を剥奪されたこと、また両者ともドイツの君主家の格を有するためか復帰の請求も行っていないため、事実上継承者は不在である。
日本皇室との関係
英国王室と皇室の交流は大正時代に遡る。
大正10年(1921年)に、御召艦「香取」で当時19歳であった昭和天皇(当時は皇太子)は横須賀から香港を経由して英国へと赴き、この際わざわざ英国南部ポーツマス軍港外に着港した船まで、当時は皇太子であったエドワード8世が出迎え、そこから鉄道でロンドンまでエスコートした。
しかも、ロンドン市内パレードでは傍らに座った当時の英国国王であるジョージ5世(チャールズ3世の曽祖父)は昭和天皇を孫の様に慈しみ、エドワード皇太子を始め英国民から盛大な歓迎を受けた。
また、昭和28年(1953年)に昭和天皇の御名代として、当時の皇太子・明仁親王(上皇様)がエリザベス2世載冠式に出席した際には、歓迎の任に当たったウィンストン・チャーチル首相が、女王への乾杯の前に伝統ある日本文化と芸術を称え、明仁親王の歓迎のための音頭を取った。
チャーチルの母・ジェニー夫人は、日本を旅したこともある見聞が広い人物で、母の影響から彼も日本に対してはいくらか好意的な印象を持っており(日本との戦いで植民地を失ったことから妻・ウィニー夫人と聞くに堪えない日本への罵詈雑言を吐いていたこともあったが)、第二次世界大戦(太平洋戦争)で日本と英国が敵対関係であった故に当時は日本を憎む英国人も多かったが、チャーチル宰相の下への真心の待遇を目の当たりとしたことから、英国の日本への国民感情はある程度和らいだ。
英国は戦争をしたばかりの国の皇太子である明仁を、戴冠式では「その他大勢」の格式で遇し、エリザベス2世も公的な場では明仁に対しては目を合わせないなど素っ気ない態度に終始したが、戴冠式後に赴いた競馬場では隣の席に招き、会話を交わすなど両王室の交流再開に努めた。
1975年には、エリザベス2世は生涯唯一の訪日をしており、会談を持った昭和天皇からは立憲君主のあり方について助言を受けたことに感銘を受けたとされている。
宮内庁発表によれば、2012年の女王・エリザベス2世在位60周年式典において、世界26ヶ国の国王・女王・首長、あるいは皇太子などが祝福に駆けつけた中、昼食会ではエリザベス女王の隣が明仁天皇であり、世界一古い歴史を有する日本の天皇を重んじた故のことであるというが、それほどの理由ではなかった様で集合写真では前列右端で写っていた。
また、日本の天皇はキリスト教圏国家以外の君主で唯一英国最高位の勲章「ガーター勲章」を授与される対象になっているとされる。昭和天皇の代は敗戦のしこりから一時剥奪されたが、その後再授与。上皇は天皇即位後の1998年に叙勲された(歴史的にはキリスト教国家以外での叙勲例は他にイラン皇帝家のみ)。