概要
1146年生~1219年没
フランス風の読み方ではギヨーム・ル・マレシャルと呼ぶ。
生い立ち
イングランドの騎士ジョン・マーシャルの三男として生まれる。
幼年時代はイングランド王位を巡るスティーブンとマティルダの争いが続いていた時期でマティルダ派として戦っていた父ジョンはスティーブン率いる軍勢に城を包囲された際に休戦と見せかけて幼いウィリアムを人質に送り、その後ウィリアムを見捨てる形でスティーブン派への抗戦の意を示したが、ウィリアムはスティーブンの慈悲で殺害されなかった。
成人後
成人後は母方の親戚の元で騎士修行を行い、母方の叔父であるパトリックが殺害された事件での奮戦が元でイングランド王妃アリエノール・ダキテーヌの知己を得る事になりイングランド王ヘンリー2世とアリエノールの間に生まれた嫡男であるヘンリー若王に仕えた。
一方でフランス騎士ロジェ・ドゴージと手を組んで数多くの馬上槍試合(トーナメント)で勝利を重ねて多額の身代金を稼いだ。生涯に500以上の試合に参加して負けなしであったという。
ヘンリー若王の死後はその遺言で聖地に赴いた後、ヘンリー2世の元でリチャード王子(リチャード1世)率いる反乱軍と戦っておりその際にリチャードと一騎打ちを行い落馬させる武勇を見せている。
出世して以後
1189年ヘンリー2世が死去した後はリチャード1世に仕え、同年にクレア家の女相続人であったイザベル・ド・クレアと結婚してペンブルック伯となりウェールズやアイルランドに広大な領土を得た。
リチャード1世の死後はジョン王に仕えて重臣として活躍、ジョンと貴族達の対立ではジョン側についた。ジョンの死後には幼少のヘンリー3世の摂政を務め、反乱を起こした貴族やフランス軍と戦い調停にも力を尽くした。
1219年5月14日に死去してロンドンのテンプル教会に埋葬される。また晩年にはテンプル騎士団に入っていた。
余談
- マーシャルという言葉は元々は厩の長官・警護役という意味の言葉であるがウィリアムの活躍によりウィリアム自身の事を指す言葉になった。
- ウィリアムは妻のイザベルとの間に5男5女を儲けたが、男子5人はウィリアム死後にそれぞれ子を残せず死去している為男系は断絶しており娘の家系に血筋が残った。これはウィリアムがとある僧正を殺害して呪われたからともされる。
関連人物
- ジョン・マーシャル(1105年~1165年)
父親。
ウィリアムの祖父で父であるギルバートはマーシャル(厩の長官)の地位を決闘裁判で守りきったが、ジョンも決闘裁判に勝利してマーシャルを世襲職とする。
- イザベル・ド・クレア(1172年~1220年)
夫人。
ストロングボウ(強弓)の異名を持つイングランドのペンブルック伯リチャード・ド・クレア(1130年~1176年)の娘で父と弟の死後はペンブルック伯の女相続人となり1189年にウィリアムと結婚し、ウィリアムはペンブルック伯の地位とイングランドやウェールズ、アイルランド各所に所領を得る事に成る。
- ウィリアム・マーシャル(1190年~1231年)
長男。
父と同名でウィリアム2世と呼称する事もある。
父の死後にペンブルック伯を継ぎその生涯を描いた「ギヨーム・マレシャル伝」を著した。
英王ヘンリー3世の娘であるエリナーを妻であったが子はいなかった。
- リチャード・マーシャル(1191年~1234年)
次男。
兄の死後にペンブルック伯を継ぐがアイルランドにて殺害された。
- モード・マーシャル(1194年~1248年)
長女。
ウィリアムの男系が断然した後にペンブルック伯の相続人となる。
- ギルバート・マーシャル(1197年~1241年)
三男。
兄リチャードの死後にペンブルック伯を継ぐが馬上槍試合の事故にて死亡した。
- ウォルター・マーシャル(1199年~1245年)
四男。
- イザベル・マーシャル(1200年~1240年)
次女。
子孫にスコットランド王ロバート1世がいる。
- シビル・マーシャル(1201年~1234年)
三女。
- エバ・マーシャル(1203年~1246年)
四女。
子孫にエドワード2世時代の権臣ロジャー・モーティマーがいる。
- アンセルム・マーシャル(1208年~1245年)
五男。
兄のウォルターの死後に後継となるが8日後に死去しウィリアムの男系は断絶した。
- ジョアン・マーシャル(1210年~1234年)
五女。