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テンプル騎士団

てんぷるきしだん

中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(ラテン語: Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。
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概要編集

 十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(キリスト教の勢力拡大のための軍事行動を目的とする修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は1096年の第1回十字軍の終了後であり、西ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。

 主な敵であったエジプトマムルークは、奴隷でありながら主君から重用された騎兵であり、

修道士と奴隷

 エルサレムを巡る華やかな騎馬戦の主役が「修道士と奴隷」であるとは、歴史に詳しくないとかなり意外だろう。


出自編集

 テンプル騎士団はその設立経緯から「修道士が武器を取った」というより「騎士が修道誓願を行った」という性質の強い修道騎士団である。中世には貴族の子弟のうち領地を継がない二男・三男や庶子を修道院に入れることはよくあることで〈脚注1〉、例えば十字軍を呼び掛けたローマ教皇ウルバヌス2世はフランス貴族の子弟でありクリュニー修道院出身であった(日本でも三男が出家することは珍しくなく、足利義教などは代表例である)。

 重装騎兵となるには武装しての騎乗を長期にわたって訓練する必要があり、ただの修道士が訓練していきなりできるようなものではなかった。しかし修道士は貴族出身が多く、当時の西欧貴族は日本の武士に近い存在であり、修道院に入る前に騎士としての訓練を積んだ者もあった。

こうして実家を継げなかった貴族が騎士となり、平民出身者が従士となり、これに修道司祭を加えて騎士修道会が成立していった。


活躍編集

 十字軍は寄せ集めであり、参加者個々人の私利私欲で動くことも珍しくなく、領地を継げなかった騎士が一旗揚げようとすることも珍しくなかった。十字軍国家のアンティオキア公を継いでいた「強盗騎士」ルノー・ド・シャティヨンなどがそうであるし、第四回十字軍などはスポンサーの商人の意向で味方であるはずの都市を攻撃して略奪する有様であった。

 その中にあって、十字軍の当初目的に忠実なテンプル騎士団は、士気も高く十字軍側で随一の成果を上げた。この功績により数多くの寄進をうけ様々な特権を与えられ肥大化して行くが、これは周囲の嫉妬と警戒を生むことにもなり、後の悲劇につながっていく。


資産編集

 修道会という性質のためその会員は入会時に私有財産をすべて喜捨するが、そのために修道会は富裕化し、金融業を営むこととなる。

 当時それに類することをしている修道会も多少はあったが、テンプル騎士団の場合は軍事活動のための資金確保のためという事もあり規模が格段に大きく、金融業部門は拡大を続け、その相手には王侯貴族も含まれていた。

 その財産には多数の領地も含まれ、財政が危ぶまれた後期には農園を経営して作物を売り、ワインを醸造・売買し、支部にある教会で大規模な市場を開いて出店料を徴収するなど、様々な手段で金策を重ね、その財産で軍事拠点を築くばかりか軍艦までもを揃えたという。

 一説には、その総資産は当時の一国の財産に匹敵する巨万の富とも噂され、全財産を積み上げれば国を買い上げることも可能とまで目されていたという。実際に騎士団のフランス支部は、当時のフランスの第二の国庫と化しており、後述の崩壊までその体制は公然の事実だった。


終焉、そして現在編集

 王侯貴族に金を貸していたことは、王からすれば借金取り、目の上のたんこぶであった。エルサレムを失い十字軍が下火になったのち、最期はフランス王フィリップ四世と敵対し、フランスの傀儡であった当時の教皇クレメンス五世により異端審問に掛けられ、悪魔崇拝、男色行為、異端容疑をでっち上げられ、借金を踏み倒された挙句滅ぼされてしまった。

 その背景には、フィリップ四世によるテンプル騎士団と自国の聖ヨハネ騎士団を合併構想、さらに合併後の全権掌握をもってのエルサレムの再征服、そしてこの偉業によるフランスを恒久的な欧州の覇者とする遠大な計画があった。だがフランスの財産はテンプル騎士団に握られ自由に出来ず、さらに度重なる財政改革の失敗から騎士団への多額の債務を抱えたため、その踏み倒しを企てたのが最大の理由だった。


 当時の異端審問は匿名性が高く、告発さえ通ってしまえば被告側は俎上の魚も同然の死刑宣告だった。

 団員たちは一切の通達もなく突然連行され、自白強要のためムチ打ち、足砕き、睾丸責めなどの苛烈な拷問が行われた。拷問に耐えた者は衰弱死、自白した者は終身刑、自白を撤回した者は偽証罪で火刑となったという。総長ジャック・ド・モレーらも火刑に処され、資産は没収された。

 その後、各地のテンプル騎士団は教皇権によって活動禁止が通告された上にフランスの聖ヨハネ騎士団への財政移譲を命じられ、騎士団は歴史の表舞台から姿を消した。

 

 ただし、ポルトガル王国の支部は、「キリスト騎士団」と名を変えて存続、今ではポルトガル共和国が授与する勲位となっている。そのほかにもスコットランド、ドイツ、キプロス島では無罪とされている。

 現在のカトリック教会においては、テンプル騎士団にかけられた容疑は完全に冤罪であるとされており、名誉回復がなされている。


伝説と創作編集

儀式編集

 入会に際して秘密儀式があり(騎士叙階を模したものでオカルト的なものではなかったようだが)、隆盛を極めながら一気に滅亡したテンプル騎士団にまつわる伝説は数多く、

  • エルサレムで聖杯聖櫃や聖十字架を発見した
  • 一部の秘密結社が、権威付けのために「我々はテンプル騎士団の流れを汲む」と主張する

などの伝説は良く語られる。

 著名な例ではかのフリーメーソンもテンプル騎士団の末裔を名乗っており、ド・モレーの不屈の精神にあやかったデモレーという支部組織も作られている。また、フランス王が目をつけるほど富裕であったことから隠し財産の噂も絶えず、テンプル騎士団埋蔵金は海賊キッドの財宝につぐ人気がある。


怪談編集

 前項は栄光に焦点を当てた華やかな伝説であるが、騎士団のあまりに壮絶な最期のため、一種の怪談も生まれている。

 団長ド・モレーは老体でムチ打ちや睾丸攻めなど七年に渡る拷問を耐え抜いた挙げ句、従順になったと見せて公開懺悔にこぎつけ、公衆の面前で「騎士団員は全員無実で、自白は全て拷問による偽証にすぎない」と高らかに演説した。大々的に面子に泥を塗られたフィリップ四世は激怒し、特別に火力を弱めて長時間かけた火刑を執行。この仕打にもド・モレーは屈せず、火中で最期まで祈り、己の正義とフィリップの非道を主張し続けた。このあまりに堂々たる態度のため、処刑に立ち会った観衆だけは冤罪を確信したという。

 この直後、フィリップとその縁者が次々に不幸に陥るという怪事件が起こる。多くは偶然であったが、中には騎士団員に不貞の罪を着せたためにその不倫相手と疑われる等の因果応報もあった。卒中で急死したフィリップも、自分は呪われていると口にしたという。皮肉にも、フィリップがテンプル騎士団に着せた悪魔崇拝者という汚名のため、一連の不幸はド・モレーが火中でかけた呪いのためと噂された。またモレーは王家断絶の呪いも掛けたとも噂され、実際にフィリップ四世の家系であるカペー朝は、フィリップ四世から二代後のフアナ二世で断絶している。クレメンス五世にも呪詛を放ったとされ、その後教皇は急死し、遺体は安置されていた教会が落雷による火災で酷く損傷してしまう。

 これらの噂は19世紀に団の名誉が回復するまでの間500年あまりも囁かれ続けた。


フィクション編集

 フィクションでもテンプル騎士団をイメージした団体は多い。

ファンタジー職業パラディンも、11世紀成立の「ローランの歌」が出典であり、この作品自体が十字軍を生んだ中世の騎士道的価値観に依拠した作品であるため、モチーフであるシャルルマーニュカール大帝)の12人の騎士より、テンプル騎士団の方がイメージに近いものとなっている。


 ダン・ブラウンの小説で映画化もされた「ダ・ヴィンチ・コード」にもテンプル騎士団が登場。

シオン修道会と共に名が挙げられ、謎を解く手がかりになっている。

その他、ウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」、ピエール・クロソウスキーの「バフォメット」においても重要な舞台装置となっている。


アメリカンコミックスの大手出版社・DCコミックスを代表するバットマンにはテンプル騎士団をイメージしたと思われる聖デュマ騎士団が登場する。作中にて二代目バットマンを襲名したジャン・ポール・ヴァレーは聖デュマ騎士団の出身。


アサシンクリード」シリーズにおけるテンプル騎士団編集

主人公らアサシン教団の敵として登場。前身の組織名は「古き結社」。

現代においては巨大複合企業「アブスターゴ社」に姿を変えており、世界の裏側で暗躍しつつ人類を支配しようとしている。しかし本人達は人類以前の文明の遺物を用いて、アサシン教団とは別のやり方で人類を守ろうとしているに過ぎず、厳密に「悪の組織」という訳ではない。


後のシリーズ作においては、テンプル騎士団についたアサシンが登場し、アサシン教団の欺瞞を示す展開も見られた。


関連人物編集

  • ユーグ・ド・パイヤン(1070年~1136年)

テンプル騎士団創設者にして初代総長。

彼の元に集まった9人の騎士と共に聖地巡礼者の安全保護を行ったのが始まりである。

  • ジェラール・ド・リドフォール(1140年~1189年)

第10代総長。

イスラムの英雄サラディン率いるアイユーブ朝の軍と幾度となく激戦を繰り広げたが、最後は捕虜となり処刑された。総長は陣頭指揮を執る事が多い為か歴代総長23名の内、罪に問われて処刑されたジャック・ド・モレーを除けば13名が戦死か捕虜となった末に処刑・獄死という最期を遂げている。

テンプル騎士団第23代総長にして最後の総長。

フィリップ4世の謀略により異端者として捕らえられて火刑となる。


外見編集

 戦場にあっては、11世紀当時の一般的な重装騎兵のスタイルである。具体的には、

などである。pixivでは、歴史上のテンプル騎士団だけでなく、十字軍の騎士風のイラストも含めて「テンプル騎士団」タグが付いている。


関連イラスト編集

第一次十字軍遠征 テンプル騎士団用長剣テンプル騎士団員


関連タグ編集

修道士 修道会 騎士 騎士団

聖ヨハネ騎士団……同時期にできた、巡礼に宿泊と医療を提供する騎士修道会。現在のマルタ騎士団

エルサレム

チェインメイル

秘密結社 聖杯

アサシンクリード


脚注編集

1: Peter Campbell, Power and politics in old regime France, 1720-1745 (Routledge, 2003) p 22

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