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フリードリヒ1世

ふりーどりひいっせい

ドイツ圏において歴史上複数名存在した王侯君主の名前。 ここでは画像の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世を中心に紹介する。
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概要編集

1122年生~1190年没


シュヴァーペン大公(在位1147年~1152年)※シュヴァーペン大公としてはフリードリヒ3世

ローマ(ドイツ)王(在位1152年~1190年)

イタリア王(在位1152年~1190年)

神聖ローマ皇帝(在位1155年~1190年)



ドイツのシュヴァーペン大公であるフリードリヒ2世独眼公の子。

通称は赤髭王でイタリア風にはバルバロッサと呼ばれる。


1147年に父が死去した事でシュヴァーペン大公となるが、1152年に死去した叔父の神聖ローマ皇帝コンラート3世の指名により次期皇帝としてローマ王となり1156年に神聖ローマ皇帝に戴冠した。


ドイツ諸侯との融和に成功し、幾度となくイタリア方面に勢力拡大の為に進出して教皇側の北イタリア諸都市(ロンバルディア同盟)と争うが大きな成果は上げられなかった。


1189年に第3回十字軍に参加し、大軍を率いて陸路を通り小アジアではルーム・セルジューク朝の首都であるイコニウムを占領する等幸先は良かったが1190年6月10日に小アジア南東部のサレフ川を渡る際に溺死するという突然の最期を迎えた。


関連人物編集


  • ベアトリス1世(1140年頃生~1184年没)

皇后。ドイツ風にはベアトリクス。

ブルターニュ女伯で最初の妻であるアーデルハイトと離婚した後の1156年に結婚し、多くの子供を産んだ。


  • ハインリヒ6世(1165年生~1197年没)

次男。

父の死後に神聖ローマ皇帝の地位を継ぎ、シチリア王女コンスタンツェと1184年に結婚した事で1194年に南イタリア遠征の成功によりシチリア王位を得た。若くしてマラリアにより急死したがコンスタンツェとの間に生まれた一人息子は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世となる。


  • フィリップ(1177年生~1208年没)

末の息子。

シュヴァーベン公であったが兄ハインリヒ6世の死後に帝位を巡りヴェルフ家のオットー4世と争った。帝位争いは優位に進みつつあったが1208年に暗殺された。


  • ハインリヒ3世(1129年~1195年没)

従兄弟。一般的にはハインリヒ獅子公の通称で知られる。

ザクセン公・バイエルン公を兼任し当時のドイツを代表する有力諸侯であったヴェルフ家の当主。

軍事・内政共に有能な人物でフリードリヒ1世のイタリア遠征にも従軍したが、失敗もあり次第に対立関係となり何度か追放された。息子にはフリードリヒの息子フィリップと帝位を争った神聖ローマ皇帝オットー4世がいる。



関連タグ編集

皇帝  王様

中世ヨーロッパ 神聖ローマ帝国

十字軍 貴族

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