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概要編集

カール4世(1316~1378)とは中世後期のルクセンブルク家二人目の神聖ローマ帝国皇帝。ルクセンブルク朝第2代ボヘミア王カレル1世としても有名。文人皇帝と呼ばれ、最初の近代的な君主と称される。金印勅書の発布やプラハ大学の創立、教皇のローマ帰還への尽力などで知られる。


生い立ち編集

1316年5月14日ボヘミア王国の首都プラハでハインリヒ7世の嫡子ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクとボヘミア及びポーランド王ヴァーツラフ2世の娘エリシュカの間に生まれる。ルクセンブルク家とプシェミスル家の血を引くチェコ人として生まれたカールであったが、政治にかかわる父と母の確執のため、3歳の時に母の手元から引き離されロケト城に閉じ込められる。その後歳から14歳までパリの宮廷に送られ、そこで育てられる。

1330年、彼はパリを去り、翌1331年からの2年間、父と共にイタリア遠征をおこなった。教皇庁が1309年に南フランスのアヴィニョンに移った後、イタリアにおいては、強力な皇帝による安定したイタリア統治を望む声が強まり、教皇派と皇帝派の対立が再燃した。彼はイタリア遠征のなか、政治上ないし軍事上の経験を積み重ね、一方では、芸術家や文人たちとの親交によってルネサンス初期の人文主義に触れた。なお、「最初の人文主義者」と称されるイタリアの詩人ペトラルカは、若きカールに期待した一人であった。

1333年、17歳になったカールはボヘミアに帰り、不在の父に代わってカレル王子としてボヘミア及びその分国であるモラヴィアの経営にあたった。1334年にはモラヴィア辺境伯となり、さらには1340年からは失明した父の代理としてボヘミアを統治した。王子時代における13年間におよぶボヘミア統治の経験は、父の没後の王位継承をきわめて円滑なものとした。

1346年、30歳となったカール王子は、ヴィッテルスバッハ家出身の皇帝ルートヴィヒ4世(バイエルン公)と対立する教皇クレメンス6世によって対立王カールとして擁立された。クレメンス6世はかつてのカールの師であり、帝国諸侯のなかにはルートヴィヒ4世の強引な所領拡大策に不満を持つ者も多く、ルクセンブルク家出身でカールの大叔父にあたるトリーア大司教バルドゥインらの選帝侯もまたカールをローマ王に選出してルートヴィヒ4世の皇帝廃位を宣言した。しかしこの時、イタリアをも含む帝国全土で「坊主王」と称されて軽侮と嘲笑の対象となっている。皇帝に教会保護の義務のみを負わせるという教皇庁の意向をカールがすべて受け入れ、自身のローマ王即位と引き替えに、従来皇帝の既得権とされてきた権限の多くを放棄したからであった。ローマ王としての戴冠式も、1346年にアーヘンではなくボン(ともに現ノルトライン=ヴェストファーレン州)で簡素に催された。この年、父と共にカールはフランスへ行き、百年戦争でフランス王国側に立って参戦した。ところが、父は戦争はじまって以来最大の会戦であるクレシーの戦いでフランス王太子ジャン(後のジャン2世)の救援に赴いて戦死した。これにより、カールはボヘミア王及びルクセンブルク伯を継承することとなった。カールは翌1347年、プラハにおいてボヘミア王として戴冠式を挙行した。直後、廃位を宣言されていたルートヴィヒ4世も死去したため、併せて正式に単独のローマ王カール4世となった。選帝侯と先帝ルートヴィヒ4世とは1338年の協約によって、選帝侯によって選出されたローマ王は教皇の認可を待つことなく皇帝とみなされることを取り決めていた。しかし帝国においては国王の世襲を主張するヴィッテルスバッハ家をはじめとして反対勢力も根強く、一時は対立王さえ現れかねない状況だったので、カールは当面本拠地であるボヘミア地方を固めた。


プラハ大学の創立編集

カール4世はローマ王となってからもチェコ人としての意識を持ち続けたといわれる。

1348年4月、カール4世は開催中であった全ボヘミア領邦議会の会期にあわせて一連の勅書を発布したが、彼はこれによってローマ王の立場から自身の選帝侯及びボヘミア王としての諸特権を再確認し、一方ではボヘミア王のもとでの所領の不可分性を規定した。また、同時に発した別の勅書によって、プラハを単にボヘミアの首都であるだけでなく皇帝の都として大々的に整備することを宣言し、その一環としてプラハ大学(現在のカレル大学)の設立を発令した。

当時のヨーロッパではライン川の東側、アルプス以北の領域には大学が一つもなかった。したがって現在のドイツにあたる地域で学問を志す若者は遠方で学ぶよりほかなかったが、幼少をパリで過ごした文化人皇帝カール4世はそのような状況の解消に努めるとともに、プラハを「東方のパリ」たらしめんことを図ったのである。ドイツ語圏初の大学は、カール4世の領国建設に資する官僚の育成を目的とするものでもあった。これにより、プラハは中欧における学問の中心として栄え、ヨーロッパ屈指の文化都市として発展した。

ローマ遠征と教皇からの戴冠編集

カール4世は1353年、ルクセンブルク伯位を異母弟のヴェンツェル1世にあたえ、爵位をルクセンブルク公へと格上げした。

1354年から1355年にかけてイタリア遠征を行い、この間ミラノでイタリア王として戴冠、さらにローマではサンピエトロ大聖堂においてローマ皇帝として正式な戴冠を受け、教皇インノケンティウス6世との協約をむすぶことに成功した。両者は互いに双方の主権を尊重しあうことを確約し、皇帝は教皇庁からの干渉を排する代わりにイタリアへの干渉を放棄した。戴冠は1355年4月5日のことであり、カール4世はその日のうちにローマを離れた。また、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノなどの諸都市からは政治的妥協の見返りとして大金を供出させた。カール4世は、祖父・父あるいは歴代皇帝とは異なり、イタリアへの政治的介入をおこなわず、むしろ神聖ローマ帝国の平穏とボヘミアの発展に力を注いだのである。

金印勅書編集

内政に力を傾注できる状況を作ったカール4世は、続いて精力的に政治改革を進めた。まず、神聖ローマ帝国の最高法規で金印勅書を発布した。1356年1月10日にはニュルンベルクの帝国議会で、同年12月25日にはメッツの帝国議会でそれぞれ承認された。勅書はその後約400年にわたって神聖ローマ帝国の基本的な体制を規定した。これにより、大空位時代より続く神聖ローマ帝国域内の政治的混乱を打開しようとしたのである。

金印勅書は全文31章から成っており、主な内容は


・戴冠式はアーヘン(当時はケルン大司教区に所在)で行うこと

・皇帝選出に関しては教皇の認可を要件としないこと

・皇帝選出権を七選帝侯(マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の3聖職諸侯、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の4世俗諸侯)が掌握すること




文人皇帝編集

カール4世はパリで養育を受け、若いころにイタリアの文人との交わりを持ったこともあって、5か国語に通じ、フランス語イタリア語ドイツ語チェコ語を自由に操り、ラテン語で自伝を著して当時のヨーロッパにあって最も教養の高い君主であった。神学と法学には生涯にわたって興味を持ち続け、生活ぶりは質素で、重篤な信仰心を抱いており、該博な古典の知識を有していた。


カール4世とユダヤ人迫害編集

 カール4世がプラハ大学を設立した1348年は、ヨーロッパ史では黒死病の大流行の年であった。恐怖に駆られた民衆は、ユダヤ人にその矛先を向け、ドイツでも西から東にポグロム(大量虐殺)が伝染してきた。カール4世のいたニュルンベルクでも市場のユダヤ人家屋が撤去され、ユダヤ教のシナゴーグに代えて聖マリア教会が建設された。49年12月には少なくとも562人のユダヤ人が火あぶりにされた。カール4世はそれを黙認したが、それへの償いの気持があったのか、プラハ新市街への移民を歓迎する法令ではその筆頭にユダヤ人をあげている。ペストの被害も少なかったこともありボヘミアではポグロムは起こらなかった。



関連タグ編集

ローマ皇帝  ボヘミア王国

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