概要
この言葉には2種類の意味が存在し、狭義としては「政治権力における各種言論のコントロール」という意味であり、広い意味合いとしては「権力を持つものによる各種言論のコントロール」という意味として用いられることがある。
用語としての意味
政治権力、すなわち政府等が報道・出版・その他の言論などの表現に対して行う規制をいう。無論これは近代憲法にて通常定められている表現の自由に属する言論の自由を否定するものであり、基本的には許されるべきではない。
手法としてはいくつか存在し、報道や出版に対する検閲およびそれに伴う発禁、特定の言論、たとえば有力者への誹謗中傷や特定の勢力を援護したり反対する言動を犯罪とする法律、不敬罪など、取材等に政治勢力の許可を必要とすることを定めるなどの手法が存在する。
この行為は国内が戦争や内戦、あるいはテロなどにより混乱した、あるいはその恐れがある状況において情勢安定のため用いられることがある。
また、軍事政権および独裁政権などが自らの正当性を守るために用いることがあり、一般に民主主義を否定する自由・権利までは認めない戦う民主主義といったものがそれに該当する。
政治勢力以外における統制としては言論弾圧が用いられることがある。
一般的な利用に関するもの
権力を持った存在、たとえば政府、スポンサーになりうる企業やその集団、あるいはマスコミなどの団体、あるいは情報の提供者などにより発言などの情報がコントロールされ、著しい場合には言論の自由が奪われる状況をさす。
多くの場合思想の統一と並行して行われることがある。
行為の是非
無論、これらの行為のすべてが悪、というわけではなく、特定の情報、たとえば外に漏れるとまずいような軍事、外交などの国民の自由を脅かすことになりかねない機密は統制、すなわちコントロールされるべきであろうし、メディア等が法律等を守るため自主規制を行うことも問題はない。
問題となるのは「行き過ぎた統制により真実が国民から遠ざけられる」ことであり、「統制を行ったものが有利になるように物事を動かすことができる」ためである。
政府による統制
これらは特に特定の政党および個人が権力を一手に掌握する独裁国家の政府によって行われることが多いとされる。彼らは「自らに不都合なこと」を他者に知られたくないため、その国のマスコミを管理し、この行為を行っていることが多い。
無論この行為は独裁国家以外、たとえば民主主義国家、資本主義国家であってもこれらの状況は発生し、特に戦争など、国内が危機的な状況にある場合に行われる場合が多い。
この場合基本的に情報を信頼しない独裁国家よりも、成功した場合この行為は有効であるといわれる。
基本的には政府が掌握するメディアでのみ行われるため、それ以外のメディア、たとえば海外メディアやインターネット上、ただし国内での検閲などのコントロールは可能、では統制は基本的に発生しないといわれる。ただし、それを盲信し、逆に誤った情報を信じ込んでしまいネットde真実扱いされることがあるため、注意が必要である。
政府がかかわらない統制
マスコミが活動していくためには資金源が必要となり、それらは基本的に広告を出すスポンサー、あるいは情報を購入するユーザーである。
無論彼らには不都合な真実が存在し、それを公表することにより彼らからの収入源が減少する、ということになるため、彼らに合わせた情報の提供、すなわちコントロールが行われる場合がある。
これらはメディアを問わず行われることがあり、複数の国で活躍する企業、すなわち多国籍企業などがかかわる場合、複数の国においてそのような情報のコントロールを行うことが可能となり、またインターネット上においても提供しているサイト等のスポンサーとしてコントロールが可能となっている。
スポンサー側の統制
国一つが特定のの企業あるいは産業が支えているケースでは政府機関が関係せず、それらの企業の息がかかった団体などがこれらの行為を行う場合があり、さらには産業の代表が政府やマスコミを傀儡としている事例も存在する。
また、不祥事やスキャンダルなど不都合な真実が報道される場合、「新たにスポンサーとなり、発言権を得てもみ消す」、「スポンサーから降りることをちらつかせもみ消す」などの手法をとることがある。
いわゆる名古屋のメディアではTOYOTAの悪口が言われないというやつである。
ユーザー
無論情報を購入するユーザーも存在する。彼らがメディアの不満な情報に対してとる行為は「メディアやスポンサーへの不買運動」や「メディアやスポンサーに対するデモ」さらに過激な場合「中の人を呼び出し糾弾する」「焼き討ち」などが行われる。
これらの行為はそのメディアの「明らかに誤った情報」に対して行われる分には問題はない。ただし、正しい情報に関して行われる場合もないとはいえない。たとえば満州事変前後における朝日新聞に対するこれらの行為は現代の視点から見れば誤ったものであったと言う意見も存在する。
自主規制
マスコミもまた法律の枠内でのみ活動可能であり、また資金源となるスポンサーおよびユーザーに対してもフォローする必要が存在する。
さらに、それらには「明らかに数は少ないが声の大きい連中」が存在しており、味方にしてもそれほど役に立たないくせに敵に回すと厄介な存在となっている。
そのため、「面倒なことになる可能性の高い」事に関しては報道を控える、ということが行われる。いわゆる自主規制というものである。
また、マスコミの中の人の独断、たいていは彼らの思想に基づいて、これら情報のコントロールが行われることがある。
日本において
ちなみに日本における状況であるが、他国に比べこの状態が発生しやすいと言われている。
その理由としては以下のものがあげられる。
- 第二次世界大戦中に政府が新聞社の統合を進め全国紙5誌、県内1誌としたため意見の多様性が失われた
- 戦後、GHQによる統治において情報統制を行ったとされるが、その際の手法が残っている
- テレビやラジオなどの電波割り当てにおいて安定運用可能な大資本を優先した
- テレビの発達の際、ニュース提供のため新聞社とテレビ局が同系列にしてしまった
これにより誰が情報のコントロールを行うにせよ、抑えるところが少なくてすむためあっさりとできてしまうのである。
ネットスラングとしての「言論統制」
最近ではインターネットの掲示板やツイッター、メールなどのコミュニティサイトおよびツールでの対人間の交流において、自身の発言(投稿)が同じコミュニティの他の利用者から否定あるいは反論されたり、そこの管理人の判断で削除されたりした際に自分の意見が撥ね付けられたことに納得できない人間が「言論の自由に反する」とばかりにこの「言論統制」(あるいは弾圧)という言葉を使って反発に出たりすることも少なくなくなりつつある。
この場合、その主張が政治的、社会的なものかどうかはあまり関係なく、「言論統制」も「言論弾圧」もほぼ一緒の意味の単語として使われがちである。
フィクションにおいては
フィクションの世界では、ディストピアものの要素としてこれらの行為が組織だって行われている様子が描かれることが多く、それらとの対決がストーリーのメインとなることもある。