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朝日新聞

あさひしんぶん

朝日新聞社が発行する新聞(全国紙)。朝刊発行部数は読売新聞に次ぐ全国2位。
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沿革編集

1879年に『朝日新聞』として大阪で創刊された。1888年に東京に進出し、『東京朝日新聞』を創刊。本拠を置く大阪では『大阪朝日新聞』とした。東京朝日新聞社は夏目漱石を専属作家として雇っていた。1940年に東京と大阪の朝日新聞が統一され、『朝日新聞』に再度改題した(この関係で、事実上東京本拠となった今でも大阪本社が登記上の本店となっている)。

なお、東京本社が有るのは中央区の築地だが、早い話が銀座・有楽町・日比谷などの「日本一地価が高い場所」まですぐの場所であり、これらの場所にも不動産・ビルなどを所有しており、この事が後述する「売上だけなら新聞・出版・メディア関係の事業の方が上だが、必要経費を差し引いた純利益は不動産収入の方が桁が1つ大きい」事の要因の1つとなっている。

また、創業時に2名の人物の共同経営だったという歴史的な経緯により、社長とは別に「社主」という役職が有り、しかも、かなり長い期間、その社主が同時に2名存在していた(創業者の子孫である村山家と上野家から1名づつ社主を出していた)という、社外の人間にとっては誰が最高責任者なのか、さっぱり判らないような事態が起きていた事も知る人ぞ知る話である。


論調とその変遷編集

戦前編集

大正時代から現在に至るまでの基本的な政治的立場は中道左派とされるが、必ずしも一貫したものではない。朝日は社内の派閥争いの激しい(例・村山事件)社風であり、その時どの派閥が優勢かによって論調が変化することも多いからである。


大正期の大阪朝日新聞は大正デモクラシーに乗った自由主義的な論調であり、時の政権に批判的な新聞の代表格だった。しかし大阪朝日新聞は大正7年に「白虹事件」という筆禍事件を起こし、他の新聞からは国賊扱いのネガティブキャンペーンを受け、社長は右翼に襲撃され、大阪朝日新聞は政府による発行禁止処分を免れるため、「不偏不党」の方針を掲げるようになった。この事件以降、朝日新聞のみならず、当局の尻馬に乗って朝日新聞を激しく攻撃した他の新聞社も権力に屈服していくこととなる。


満州事変の際には当時のマスコミの例にもれず、軍部に迎合した論調を展開するようになるが(まぁ、ぶっちゃけ、多くの日本国民も、そういう報道を望み喜んだ訳なので、倫理的にはともかく商売と割り切れば何1つ間違っていない極めて合理的な選択と言える)、これは勝ち戦の報道を喜ぶ大衆に迎合した結果である(現代に当てはめれば、スポーツの世界リーグにおける日本チームの快進撃をマスコミが大々的に報道し、大衆が熱狂しているようなもの、ととらえればだいたいあってる)。当時の朝日の報道については、当時の記者の一人で政界・軍部にも大きな影響力が有った尾崎秀実が後にソ連のスパイであったことが判明(ゾルゲ事件)した例を挙げ、「コミンテルンと通じて日本の関心をソ連から中国や米国に向けさせた」とする陰謀論が「朝日嫌い」の右翼の間で囁かれるが、事変(戦争)拡大の世論を煽動したのは他の新聞も同様であり、朝日が突出した論調だったわけではない。そもそも、日本陸軍が北進を断念したのはソ連の工作ではなくノモンハン事件独ソ不可侵条約の結果であり、そこに不可解な点はない。

なお、尾崎秀実は、戦争を煽りまくっていた上に、逮捕されるまでは「最も過激な愛国者」と呼ばれていたような人物であり、仮に尾崎秀実が本当にソ連に都合の良い世論工作をしていたのなら「他国の世論を自国に都合良く操作したければ、その工作員には相手国の『愛国者』『国粋主義者』のフリをさせるのが、最も効率的」という一応の辻褄は合っている話にはなる。(とは言え、陰謀論の多くは、それなりに辻褄が合っているから信じる者が出る訳で、辻褄が合っている事と事実かどうかは大した関係は無いのだが)



戦後編集

戦後、朝日新聞は昭和20年8月23日付社説「自らを罪するの弁」で、 日本の新聞の中で真っ先に戦争責任を謝罪、経営陣が退任した(ただし6年後には社長、会長が復帰している)。大戦時の反省から戦後の論調は再び中道リベラルとなり、平和主義を基調とした論調で知られた。まさに戦後は「朝日」の黄金時代であり、一時期は「進歩的文化人」の愛読する新聞として、論壇で絶対的な地位を築いていたため、「朝日」が権威として右派や新左翼に目の敵にされることにも繋がった。


1970年代から1990年代にかけては世間的に保守化傾向が強まり、その権威も緩やかに落ちていき、この時期には部数の多い読売新聞が突出して保守化したため、相対的に朝日の左派色が鮮明になっていた。もっとも、政権を擁護するような論説を載せたり、船橋洋一のような右派を主筆にしたりしたこともあり、中日新聞ほど政権との対立色は強くない。


「朝日叩き」は1958年に強硬保守路線に転じた産経新聞、1969年創刊の「諸君!」(文芸春秋社、2009年休刊)を筆頭に、右翼・保守系メディアの定番ネタであった。ネット上でもこの流れは続き、2000年代以降も「KY」「アサヒる」「アサピー」など朝日を揶揄するネットスラングが生み出されていた。これらはネット右翼ブームとともに一般にも拡大した。

2010年代になると各地の書店にはヘイト本が山積みとなる情勢の中、左翼・リベラル勢力の存在感が薄れ、右翼・保守側が優勢となる。そして論争の中心だった歴史認識問題にしても朝日吉田問題を追い風に右翼・保守側が一方的に勝利宣言、「一切は捏造、解決済み」とし、相手は共産主義や外国の手先と決めつけ議論自体に応じないスタンスに切り替わったため、以前ほど論争は目立たなくなった(この過程で何故かネット右翼の攻撃対象が右派のフジテレビになったりもした)。


政界にも朝日新聞出身者は多いが、政治的スタンスは様々である。過去の政治家では中野正剛(東條英機のライバルのファシスト)、緒方竹虎、河野一郎、田川誠一、現役政治家では山本一太山岸一生らは元朝日新聞社員である。


南極観測事業への貢献編集

現在では忘れられがちだが、戦前・戦後の日本の南極観測の発端には朝日新聞が深くかかわっている。明治43年、政府・陸軍の支援を得られず孤立していた南極探検の先駆者・白瀬矗に手を差し伸べたのが東京朝日新聞であり、白瀬は朝日新聞読者からの義捐金で探検船・開南丸を買い、南極へ出発することができたのである。


また、戦後第一回の南極観測の発案者は朝日新聞の記者・矢田喜美雄であった。朝日新聞社の主導による事業であったにもかかわらず新聞各社はこれを日本の国際社会への復帰を象徴する事業として大々的に報道し、国民は、南極観測への参加を熱狂的に歓迎。各所から寄せられた募金によって南極観測船に改造された海上保安庁巡視船宗谷は「到達不可能」と言われた南極大陸・プリンスハラルド海岸への到達を見事に成功させ、戦後の南極観測の礎を築いたのである。


航空部編集

実は朝日新聞は、日本の民間航空の発展に貢献した会社でもあった。


第一次世界大戦での飛行機のめざましい発達から、航空機の活用を着想し、1923年に東西定期航空会を立ち上げた。この航空会は、大阪と東京の間に定期路線を開設するために作られたものであり、実際に陸軍から払い下げてもらった練習機を使って運行も行った。

さらに1925年には、それとは別にフランスの偵察機・ブレゲー19を2機購入、「初風号」・「東風号」と命名し、ヨーロッパ訪問フライトを実施した。なお、日本人による飛行機でのヨーロッパ訪問は、これが初めてであった。


この成功に気をよくしてか、1926年に航空部を立ち上げた。ただその一方で東西定期航空会は1929年3月31日をもって活動を停止し、国営航空会社の日本航空輸送に旅客・貨物輸送を無償譲渡した。


1937年、陸軍から払い下げられた偵察機に「神風号」と命名、これを使って東京・立川飛行場-ロンドン・クロイドン飛行場(イギリス)間のフライトに挑戦、4日掛かりで見事成功した。なお、その後1週間かかってロンドンから無事帰国している。なお、この快挙を成し遂げた2人の乗組員、飯沼正明は飛行機事故で死亡。塚越賢爾操縦士は軍務での飛行中に消息を絶つと言う、悲劇的な最後を遂げている。


1945年8月15日(あるいは9月3日)、日本の第2次世界大戦敗戦により、飛行機を使うことができなくなったことで、航空部は開店休業状態に陥るが、サンフランシスコ講和条約発効に伴う、日本人による航空機活動再開を受け、こちらも復活した。その際、アメリカ製軽飛行機・セスナ195を3機導入したものの数的な不足により、アメリカ製双発飛行機・エアロコマンダー520を追加購入、「(2代目)初風号」と命名した。ただそのせいで予算が底をついたものか、ヘリコプターの導入は1955年と、読売新聞毎日新聞ばかりか中日新聞、さらには産経新聞よりも遅かった(いずれも1952年11月にそろって導入)。もっともそのヘリコプターは先述の南極観測に派遣されている。


1976年にはビジネスジェット機・セスナサイテーションを投入、「はやて号」と名付けた。当然ながら報道のスピードアップに大きく貢献している。


2017年6月現在、ヘリコプターを4機(大阪本社用1機、東京本社用2機、西部本社用1機)とビジネスジェット機1機(セスナサイテーション、羽田空港常駐、「あすか号」)を所有している。


1994年10月に大阪府泉佐野市上空でヘリコプター「まいどり号」が、毎日新聞のヘリコプター「ジェットスワン号」と接触して墜落、乗員3人が殉職してしまった。


実は、全日空の直系の前身・日本ヘリコプター輸送(日ペリ航空)の初代社長は朝日新聞の航空部に在籍していた美土路昌一であり、全日空の社長を勇退した後、朝日新聞に社長として復帰している。また、日ペリ航空設立の際に資金提供をしており、その縁で、朝日新聞は全日空の株主に名を連ねている。


なお、報道用・撮影用などにヘリコプターのレンタルを行なっている朝日航洋という航空会社が有るが朝日新聞とは資本などの関係は一切ない別会社である。


天声人語編集

朝日新聞の一面コラムである「天声人語」は他社の同様の企画に比べ圧倒的な知名度を誇り、大学入試出題数ナンバーワンとされている。現代文の読解力をつけるのには適しているとされ、そのブランドと知名度は揺るがない地位を持っている。そのため、「天声人語」目的で朝日新聞を購読する受験生もおり、天声人語書き写しノートという専用の学習ノートを朝日新聞社自身(朝日新聞出版ではなく)が発行している。


余談編集

  • 読売新聞社と並んで「不動産業の収益が多い新聞社」「営業利益では報道事業より不動産事業の方が多い」事で有名な新聞社であり、ぶっちゃけ、不動産屋が趣味で新聞も発行しているのに近い状態とも言える。
    • 実際に年度別の収益を見ると、新聞の売上は落ちているのに、営業利益は大きくなっているような場合も少なくない。
    • 売上だけなら新聞や出版などのメディア関係が大きいが、必要経費などを差し引いた純利益まで見ると、不動産事業の方が桁が1つ多いような状態である。

朝日新聞に連載された漫画編集


関連タグ編集

朝日 野村秋介 リベラル コトバンク

朝日新聞出版(旧朝日ソノラマ) 日刊スポーツ

いだてん〜東京オリムピック噺〜・・・主役の一人、田畑政治が朝日新聞記者だったので、実名で登場。

ホロライブ・・・47都道府県の朝日新聞の紙面ジャックする企画にてタイアップした。

魔法少女:このサブカルチャーについての特集記事を出版したことがある。

全国高等学校野球選手権大会:大会主催者。

朝日杯フューチュリティステークス

セントライト記念

競輪祭


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