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朝日新聞

あさひしんぶん

朝日新聞社が発行する新聞(全国紙)。朝刊発行部数は世界2位。
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沿革

1879年に大阪で創刊された。1888年に東京に進出し、『東京朝日新聞』を創刊。本拠を置く大阪では『大阪朝日新聞』とした。東京朝日新聞社は夏目漱石を専属作家として雇っていた。1940年に東京と大阪の朝日新聞が統一され、『朝日新聞』に改題した(この関係で、事実上東京本拠となった今でも大阪本社が登記上の本店となっている)。

論調とその変遷

大正期の大阪朝日新聞は大正デモクラシーに乗った自由主義的な論調であり、時の政権に批判的な新聞の代表格だった。しかし大阪朝日新聞は大正7年に「白虹事件」という筆禍事件を起こし、他の新聞からは国賊扱いのネガティブキャンペーンを受け、社長は右翼に襲撃され、大阪朝日新聞は政府による発行禁止処分を免れるため、「不偏不党」の方針を掲げるようになった。この事件以降、朝日新聞のみならず、当局の尻馬に乗って朝日新聞を激しく攻撃した他の新聞社も権力に屈服していくこととなる。

満州事変の際には当時のマスコミの例にもれず、陸軍が参謀次長を派遣して圧力をかけようとすると、課長が応対して「任せて欲しい」と自ら進んで大見得を切ったり、海軍に予算を獲られたくない陸軍が反対する国際連盟脱退を煽ったり、日中戦争の際には南京陥落以前に陥落の誤報を出すなど、軍部に迎合した論調を展開するようになった。これら報道については田原総一朗が「(マスコミが)世論をアジテートして軍部をイケイケドンドンにさせた。その理由は、戦争反対というと売れなくなるから。弾圧があって戦争反対と言えなかったというのはウソ。」と述べているように、経済的な問題が大きかった。当時の記者の一人尾崎秀実が後にソ連のスパイであったことが判明(ゾルゲ事件)した例を挙げ、強硬論の背景には海外勢力からの影響も少なからずあったという推測もあるが、この時事変(戦争)拡大の世論を煽動したのは他の新聞も同様であり、朝日が突出した論調だったわけではない。

戦後、朝日新聞は昭和20年8月23日付社説「自らを罪するの弁」で、 日本の新聞の中で真っ先に戦争責任を謝罪、経営陣が退任した(ただし、はやくも6年後には社長、会長が復帰している)。大戦時の反省から戦後の論調は再び中道リベラルとなり、平和主義を基調とした論調で知られた。まさに戦後は「朝日」の黄金時代であり、一時期はインテリの愛読する新聞として、絶対的な地位を築いていた。

1980年代以降は論調の保守化が進み、社内では船橋洋一のような親米保守派が権勢をふるうようになったが、それ以上に読売新聞が突出して保守化したため、相対的に朝日が左派的と目されるようになった。なお、朝日新聞は社内の派閥争いが激しい(例・村山事件)社風であり、その時どの派閥が優勢かによって論調が変化することも多い。

南極観測事業への貢献

現在では忘れられがちだが、戦前・戦後の日本の南極観測の発端には朝日新聞が深くかかわっている。明治43年、政府・陸軍の支援を得られず孤立していた南極探検の先駆者・白瀬矗に手を差し伸べたのが東京朝日新聞であり、白瀬は朝日新聞読者からの義捐金で探検船・開南丸を買い、南極へ出発することができたのである。

また、戦後第一回の南極観測の発案者は朝日新聞の記者・矢田喜美雄であった。朝日新聞社の主導による事業であったにもかかわらず新聞各社はこれを日本の国際社会への復帰を象徴する事業として大々的に報道し、国民は、南極観測への参加を熱狂的に歓迎。各所から寄せられた募金によって南極観測船に改造された海上保安庁巡視船宗谷は「到達不可能」と言われた南極大陸・プリンスハラルド海岸への到達を見事に成功させ、戦後の南極観測の礎を築いたのである。

航空部

実は朝日新聞は、日本の民間航空の発展に貢献した会社でもあった。

第一次世界大戦での飛行機のめざましい発達から、航空機の活用を着想し、1923年に東西定期航空会を立ち上げた。この航空会は、大阪と東京の間に定期路線を開設するために作られたものであり、実際に陸軍から払い下げてもらった練習機を使って運行も行った。
さらに1925年には、それとは別にフランスの偵察機・ブレゲー19を2機購入、「初風号」・「東風号」と命名し、ヨーロッパ訪問フライトを実施した。なお、日本人による、飛行機でのヨーロッパ訪問は、これが初めてであった。

この成功に気をよくしてか、1926年に航空部を立ち上げた。ただその一方で東西定期航空会は1929年3月いっぱいをもって活動を停止した。国営航空会社の日本航空輸送が立ち上げられ、そこに旅客・貨物輸送を召し上げられてしまったためである。

1937年、陸軍から払い下げられた偵察機に「神風号」と命名、これを使って東京・立川飛行場-ロンドン・クロイドン飛行場(イギリス)間のフライトに挑戦、4日掛かりで見事成功した。なお、その後1週間かかってロンドンから無事帰国している。なお、この快挙を成し遂げた2人の乗組員、飯沼正明は飛行機事故で死亡。塚越賢爾操縦士は軍務での飛行中に消息を絶つと言う、悲劇的な最後を遂げている。

1945年8月15日(あるいは9月3日)の、日本の第2次世界大戦敗戦により、飛行機を使うことができなくなったことで、航空部は開店休業状態に陥るが、サンフランシスコ講和条約発効に伴い、日本人による航空機活動再開に伴い、こちらも復活した。その際、アメリカ製軽飛行機・セスナ195を3機導入したものの数的な不足により、アメリカ製双発飛行機・エアロコマンダー520(、それも試作機同然のシロモノ)を追加購入、「(2代目)初風号」と命名した。ただそのせいで予算が底をついたものか、ヘリコプターの導入は1955年と、読売新聞毎日新聞ばかりか産経新聞、さらには中日新聞よりも遅かった(いずれも1952年11月にそろって導入)。もっともそのヘリコプター、先述の南極観測に派遣されていると言うからたいしたものである。

1976年にはビジネスジェット機・セスナサイテーションを投入、「はやて号」と名付けた。当然ながら報道のスピードアップに大きく貢献している。

2017年6月現在、ヘリコプターを4機(大阪本社用1機、東京本社用2機、西部本社用1機)とビジネスジェット機1機(セスナサイテーション、羽田空港常駐、「あすか号」)を所有している。

1994年10月に大阪府泉佐野市上空でヘリコプター「まいどり号」が、毎日新聞のヘリコプター「ジェットスワン号」と接触して墜落、乗員3人が殉職してしまった。

実は、全日空の直系の前身・日本ヘリコプター輸送の初代社長は朝日新聞の航空部に在籍していた美土路昌一であり、全日空の社長を勇退した後、朝日新聞に社長として復帰している。また、こんないきさつがあるからか、朝日新聞は、全日空の株主に名を連ねている。

阪神支局襲撃事件

朝日新聞は戦後もたびたび右翼、暴力団などのテロの標的となっている。そのなかでも最大のものが、1987年から1990年に起こった一連の赤報隊事件の一件、「阪神支局襲撃事件」である。
1987年5月3日夜、散弾銃を持った男が阪神支局を襲撃。記者2名に向かって発砲し、1人は死亡、もう1人も手の指2本を失う大怪我を負った。朝日新聞には「赤報隊」を名乗る犯人により、この年の1月より翌年1988年にかけて、この件を含め、のべ4回もの銃撃・爆弾設置などのテロ行為が行われており、右翼団体は毎年この言論テロを「義挙」として讃えるデモを行っている。

森友学園問題

朝日新聞は、財務省の森友文書改竄を一番に報道したメディアである。

朝日新聞に連載された漫画

サザエさん ペエスケ ののちゃん フジ三太郎 地球防衛家のヒトビト

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