ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

白瀬矗による日本初の南極探検に使用された木造帆船。命名は東郷平八郎による。


白瀬はもともと北極探検を目標にしていたが、ロバート・ピアリーの北極点踏破を受け目標を南極点到達に変更。しかし、政府、陸軍からの金銭的援助が全くなく、東京朝日新聞大隈重信のバックアップを受け、南極を目指した。


開南丸編集

1910年に漁船第二報效丸を購入し、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施したもので、排水量はわずか204トン(ちなみにロアール・アムンセンの南極探検に用いられた「フラム」は402トン)。極地探検のために建造されたわけでもなく、耐氷能力もない船だったが、白瀬隊の資金不足からやむを得ないものであった。


1910年11月に東京を出港。1年以上の船旅の末、1912年1月に南極に到達した白瀬隊はアムンセン隊と相互に表敬訪問をしているが、この際に白瀬隊の貧弱な装備や経験の乏しさを見抜かれ、「ライバルではない」と判断されている。


白瀬隊は南緯80度05分までしか到達できなかった(ここは南極大陸ですらなく棚氷の上である)。いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなった(図らずも1958年の第二次南極観測隊も似たような事態を経験している)。


同年6月20日に東京に帰港。時の政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援したといい、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸いたという。


関連項目編集

宗谷(船) - 初代南極観測船。開南丸の南極探検から45年後の1957年1月29日に東オングル島に到達し、日本の南極観測事業の礎を築いた。

関連記事

親記事

帆船 はんせん

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 386

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました