概要
第1次南極観測隊に同行した樺太犬の兄弟。1956年1月、風連のクマとクロの子として稚内市で生まれた。サブロという弟もいたが、訓練中に病死している。
第1次南極観測隊に同行した犬はタロとジロを含め22頭いる。犬たちは「樺太犬」と呼ばれているが、樺太犬の割に毛が短いポチや、北海道犬っぽいシロ子、シェパードの血が混じったデリーなどもおり、全てが純粋な樺太犬ではなかった。その中にあって風連のクマとその息子たちであるタロ、ジロ、ゴロ、アンコ、風連のクマの兄弟である紋別のクマ(タロとジロのおじに当たる)などは黒っぽい毛がフサフサとしていて典型的な樺太犬の特徴を示している(ただし、純血の樺太犬にも短毛のものもいたという)。
経緯
南極地域観測予備隊(のちに第1次南極地域観測隊と名称を変更)と犬22頭、船乗り猫のタケシ、それにカナリアを乗せた初代南極観測船・宗谷は1956年11月に日本を出発し、翌57年の年明けに南極・東オングル島に到着した。なお、「観測予備隊」の名前は、当初は本格的な観測開始は次年度以降と予定されていたことによる。当時の宗谷の能力では接岸は難しいと思われており基地建設だけして引き上げる計画だったが、気象条件が思いのほか良く、接岸により大量の資材の陸上げが実現したため、昭和基地を建設後急きょ越冬隊を編成することになった。
宗谷が日本を出発した時、犬は上記の通り22頭いたが、船内で1頭が発病(帰国中に病死)、1頭は高齢のため帰国、1頭が階段から落ちて負傷し帰国したため、越冬したのは19頭である。タケシとカナリアも昭和基地に残った。犬たちが主に従事したのは、隊員の遠出の時の犬ぞり引きだった。越冬中に1頭が病死、2頭が行方不明になり、犬の数は16頭に減ったが、唯一の雌であったシロ子が8頭の子犬を産んだ。タケシは猫なので仕事は与えられず、隊員や子犬たちと遊んでいた。
ところが、1957年12月(南半球は夏)の第2次越冬隊への交代の際の天候は極めて悪く、宗谷は分厚い氷に閉じ込められたまま1ヶ月間漂流する有様になってしまった。何とか氷原から脱出した宗谷はアメリカ海軍の砕氷艦バートン・アイランドの助けで昭和基地への接近を目指すが、間断ないブリザードに見舞われ隊員の収容作業は困難を極め、2月10〜12日にDHC-2ビーバー機を飛ばして西堀栄三郎隊長以下11人の第1次越冬隊員を収容、第2次越冬隊の3人が越冬を目指して基地に入った。しかし、バートン・アイランド艦長から越冬を断念するよう厳命があり、14日にまたビーバー機を飛ばして第2次隊は撤収した。撤収の際、シロ子と子犬たちとタケシとカナリア2羽は何とか連れ帰ったものの、タロとジロを含む15頭を鎖につないだまま基地に残さざるをえなかった。隊員たちは犬たちを置き去りにするつもりなどなく、天候の回復を待ってまた水上機を飛ばすつもりだった(だからこそ犬を鎖につないだままにしたのである)が、バートン・アイランド艦長の通告を受けて諦めざるを得ず、泣く泣く帰国の途につくことになった。
帰国した隊員を待っていたのは、犬を置き去りにしたことへの猛烈な世間の非難だった。1958年6月、大阪市堺市の大浜公園に15頭を悼む「樺太犬慰霊像」が寄進され、越冬隊員も参加して大規模な慰霊祭が行われた。当時タロとジロが生きていたことは誰も知らず、2頭は生きながら慰霊されたことになる。ただし、慰霊祭では残された15頭の名前が一頭ずつ読み上げられたが、なぜかタロとジロの名前が読み飛ばされたという証言があるが真偽は定かではない。15頭の記念像は東京タワーの下にも建てられた(今は立川市の国立極地研究所敷地内に移されている)。
ところが、1959年1月14日に第3次越冬隊のヘリコプターによって2頭の犬が生存していることが視認された。駆け寄ってきた犬が「ジロ」「タロ」との呼びかけに反応したことから、タロとジロであることが確認されたのである。
他の犬は、クロ、アカ、ゴロ、紋別のクマ、ポチ、ペス、深川のモクの7頭が鎖につながれたまま死に、ジャック、デリー、シロ、アンコ、風連のクマ、リキの6頭が首輪抜けをしたが行方不明となった(9年後の1968年にリキの死体が見つかる)。
その後ジロは南極で亡くなったが、タロは1961年5月に日本に帰還し、北海道で余生を過ごした。北海道大学植物園でタロの剥製が、国立科学博物館でジロの剥製が展示されている。
その後
日本の南極観測隊がそり犬として犬を連れて行ったのは1959〜60年の第4次隊が最後で、その後は犬はペットとして飼われていた。1976年2月に昭和基地最後の犬ホセが死に、以降の昭和基地には犬はいない(自然保護のため南極に犬は連れていけないことになっている)。