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宗谷(船)

そうや

「宗谷」は、数奇な運命をたどった日本の砕氷船である。昭和の戦前・戦後にわたって活躍し、「幸運の船」「奇跡の船」「不可能を可能にする船」など多くの二つ名を持つ。
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概要

「宗谷」(巡視船としての船番号はPL107)は、昭和の戦前戦後の長きにわたって活躍した日本砕氷船である。第二次世界大戦中は旧日本海軍所属、戦後は主に海上保安庁所属として活躍した。

1938年進水・竣工。時期により船容や塗色が大きく変わっているが、メイン画像は第三次南極観測時代の「宗谷」の姿である。

注意

本船を描いた作品やオリジナル船舶擬人化キャラクターのイラストと区別するため、艦娘の宗谷を描いた作品にはこのタグを付けないようにしよう。

略歴

「宗谷」は本来ソ連向けの商船として建造されながら、特務艦灯台補給船、巡視船南極観測船時代含む)として各地の海を駆け回り、昭和史に深く関わってきた船である。

1978年に巡視船任務を後継のPLH01「そうや」に引き継ぎ、1979年以降は東京・お台場船の科学館にて係留されている。解役はされたものの船籍からは除籍されておらず、航行はしないが現役の船であるとも言える。海上に現存する唯一の旧日本海軍艦船として「帝国海軍最後の生き残り」なる異名もある(三笠は岸壁に埋められており建造物扱い。氷川丸は徴用船であり海軍に在籍していたわけではない)。

南極観測船としての活躍が特に知られ、昭和戦後の子供たちからは絶大な人気があった。巡視船時代は海保最大の船・唯一の砕氷船(当時)として350回以上海難救助に出動したほか、流氷観測やソビエト連邦当局との折衝にも当たり、北海道の漁業者から大いに信頼を寄せられた。1978年の巡視船解役にあたっては、練習航海を兼ねて全国14の港を回ったが各港に万単位の見学者が押し寄せ、『さよなら宗谷』なる歌が創作される(歌唱者は春日八郎)など、当時の日本人にとって「宗谷」が国民的な存在であった事がうかがわれる。

1984年に本船を主人公としたTVアニメ『宗谷物語』が国際映画社の手によって制作され、テレビ東京テレビ大阪テレビ愛知および福岡放送(この局のみ日本テレビ系列局)他にて放送された。「船」そのものがアニメの主人公となった例は前代未聞であり、現在に至っても同作が唯一である(アニメ『氷川丸ものがたり』の主人公は氷川丸ではなく平山次郎という少年である)。

海事技術への貢献も多岐にわたるが、日本で最初にヘリコプターを搭載した船である事が特筆される。本船のヘリ運用実績は海上保安庁のヘリコプター搭載型大型巡視船海上自衛隊南極観測船に直接引き継がれている。

船名について

本船は商船・特務艦艇としての経歴も持つが、(南極観測船時代を含め)海上保安庁の巡視船時代が長く、退役時まで海上保安庁を代表する船として扱われていたことから、親記事を「巡視船」としている。

「宗谷」の名を冠する船は、日本海軍の艦船としては2代目(初代は日露戦争時に鹵獲した帝政ロシアの防護巡洋艦ヴァリャーグ=初代宗谷)、海上保安庁の船としては初代。鉄道省の稚泊連絡船「宗谷丸」(のち国鉄の青函連絡船)とはよく混同されるが、別の船である(宗谷丸については「幸運船」の記事でも紹介されている)。

経歴

特務艦 宗谷


「宗谷」の変遷。
左下(進水時)→中下(商船時)→上(特務艦時)→右下(南極観測船時)へとその姿を変えた。

生い立ち

1936年9月18日、川南工業ソビエト連邦通商代表部から3隻の耐氷型貨物船の発注を受け、1936年12月7日に長崎県川南工業香焼島造船所にて3姉妹の2番船、後の「宗谷」である107番船が起工、1938年2月16日にソ連船「ボロチャエベツ」として進水する。
当時、物価の上昇などの影響のため工事は遅れに遅れ、起工したのは2番目にも関わらず、進水は最後となった。
3隻の引き渡しに伴い、ソ連はロイド船級協会の規格に沿った性能を3隻に要求し、一番船ボルシェビキをロイド船級協会極東主任検査官立会いのもとで公試運転したところ、性能不十分で不合格と判断された。 建造中はソ連から派遣された技師に厳しく監視されていたにもかかわらず、なぜこんな出来になってしまったのかといえば、造船所自体が再開して間もない上に、そもそも工員の半分が「元ガラス工」、要するに船作りに関しては素人の集団が作ったからなのかもしれない(なお本船は1938年7月にロイド船級1A耐氷型に合格している)。

本船と姉妹船は深い北方海域を安全に航海するため最新鋭のイギリス製音響測深儀(ソナー)が装備されていた事もあり、砕氷艦大泊」の後続を建造するまでの繋ぎとして日本海軍の興味を引き、買収を画策する。これにより3隻のソ連への引き渡しは中止となったが、当然ながら本船を発注したソ連とトラブルとなり、違約金の支払いを求めるソ連との裁判沙汰となり外交問題にまで発展、1941年に外交決着した。

そして「ボロチャエベツ」は名前を変え、1938年6月10日に日本の商船「地領丸」として竣工したが、引取り先がないために3隻は川南工業運用のもとで栗林商船、日清汽船等にチャーターされ本土と朝鮮半島、千島列島で輸送業務に就き、川南工業と辰馬汽船が共同設立した辰南商船に移籍、しばらくして海軍への売却が正式に決まった。

この間日本の戦略が南方対米重視となった事もあり、3隻を海軍へ売却する計画は消えて1隻のみが売却された。この1隻が3姉妹の中で最後に完成した地領丸だった。

地領丸は1940年2月20日に海軍へ売却され、「宗谷」の名が与えられて同年6月4日特務艦として改装工事完了。測量・輸送任務につく。

なお、帝国海軍の歴史を通じて陸海軍に徴傭された商船は多く、その中には特設艦船として改造された船も少なくないが、正式に軍籍に編入された船は「宗谷」だけであった。

宗谷と姉妹船たち

起工時 進水時ロシア名 意味 就役時の名前
106番船 ボルシェビキ ソ連共産党 天領丸
107番船 ボロチャエベツ ボロチャエフの戦友 地領丸(宗谷)
108番船 コムソモーレツ 共産主義青年同盟 民領丸
※ボロチャエフはロシア内戦で赤軍と白軍の戦闘があった場所の地名。

特務艦「宗谷」

日本海軍特務艦 宗谷



海軍時代は横須賀鎮守府付属・第四艦隊・第八艦隊・連合艦隊付属と様々な場所へ配属され、南方作戦、ミッドウェー海戦第一次ソロモン海戦などの作戦にも参加。測量、威力偵察、気象・海象観測、掃海、輸送、上陸支援などなど多岐にわたる任務に従事した。

「宗谷」の最初の晴れ舞台は1940年10月11日に行われた紀元二千六百年特別観艦式であった。「宗谷」は中央気象台(戦後は気象庁)の「凌風丸(初代)」とともに、戦前の観艦式と戦後の観閲式の両方に参加した数少ない船の一隻である。

強運艦

「宗谷」は太平洋戦争中、他の船艇が全滅するような困難な任務に何度も投入されながら戦後まで生き残った、突出した強運艦の一隻として有名である。

魚雷が避けるのは普通で、魚雷が船底を通り過ぎる、または魚雷が命中しても不発(2回経験)。そのうち一回は船体に突き刺さった不発の魚雷を甲板に引き上げて記念写真を撮影した写真が残っている。停泊中に空襲に遭い、回りの船が沈んでいく中、損害軽微で健在であったことも何度もあった。B-24P-38と交戦した事もあった。

ブラウン島からクェゼリンへ向かおうとしたところ、前任の艦長から「クェゼリンは食料不足なので辞めたほうが良い」との助言を受けトラック島へ向かった所、クェゼリンに米軍が上陸、クェゼリンの戦いが始まった。トラック島へ向かう事は決まったが、トラック島はブラウン島よりも前線に近く危険であり、ブラウン島での測量任務も残っていたため、測量隊をブラウン島に残してトラック島へ向かうこととなった。測量隊は運の良い「宗谷」と離れるのを嫌がり「置いて行かないでくれ」と頼んだが「必ず迎えに来る」と約束してトラック島へ向かう。その後ブラウン島に米軍が上陸、ブラウン島にいた日本軍は玉砕した。
トラック島空襲では回避行動中に座礁し、機銃掃射を浴びて10名が戦死、総員退艦命令が下され無人で放置された。その後の攻撃で船団の他の船が次々と沈む中、機銃掃射で船体に無数の穴が開いていたが、沈む事なく自力航行可能な状態だった。無人の「宗谷」は満潮時に自然脱出、漂流している所を乗員が飛び乗って日本へ無事帰る事ができた。
1944年5月には北千島に向かう戦車第十一連隊第四梯団を雪風と共に護衛して大湊から幌筵島柏原に赴いている。この時、「宗谷」の姉妹船である「天領丸」もいた。

日本軍の敗色が濃くなった大戦末期には、宗谷が測量すべき海域、支援すべき上陸作戦も無くなり、もっぱら輸送任務に就く事となった。 敵機動艦隊や潜水艦部隊が待ち構える太平洋の横須賀と北海道を結ぶ輸送ルートは特攻輸送と呼ばれ、非常に危険であった。船団の他の艦艇が次々沈む中、「宗谷」が被害を受ける事はなかった。
1945年8月2日、横須賀でドック入りしている時に戦艦「長門」、病院船「氷川丸」と共に空襲を受ける。米軍機からガソリンタンクを機関室に投下され、一面ガソリンまみれになるが、ボイラーに火を入れていなかったため難を逃れる。
8月2日、横須賀第四ドックに入渠中に空襲を受けた「宗谷」は、横須賀鎮守府の待避命令に従い、翌3日標的艦大浜を伴って横須賀を発し、4日女川港に大浜を置いて、最後の輸送任務のため室蘭へ単艦で出航、八戸を経て8月8日午後5時に室蘭に入港。ここで8月15日の終戦を迎えた。

室蘭に向かう道中、敵機動部隊に接近されるが、急に濃霧が立ち込めて視界がゼロに。「宗谷」は「神の衣」と乗員に呼ばれた濃霧を利用して敵中突破し、8月7日八戸港に無事入港。敵機動部隊は8月9日に女川と八戸を空襲しており、出港が遅かったら「宗谷」も沈んでいたかもしれない。

海軍在籍時に潜水艦2隻撃退(共同戦果含む)、戦闘機1機撃墜の戦績を有しており、特務艦としては珍しい武勲を上げている。

軍籍に入った「宗谷」は、艦艇での軍事行動には欠かせない海図を作成するために様々な海を測量して周り、現在の海図にも「宗谷」が測量したことを示す「SOYA」と名付けられた礁が多く存在する。
商船改造の軍艦ではあるが、歴代艦長は大佐もしくは中佐と巡洋艦などの艦長と同じクラスの軍人が指揮を取った。 小さい船のわりには士官用の設備もあったため、駆逐艦などよりも豪華な内部施設だった。

ただ、やはり軍に入隊したにもかかわらず商船改造の「宗谷」に乗り込む兵士は「こんなかっこ悪い船に乗るのか?」と落胆した者も多く、いざ乗ってみると揺れる船体に加えて速度も遅く、乗組員には相当なストレスを与えていたようだ。 だが、「宗谷」の運の良さがわかってくると「『宗谷』に乗っている事が最大の幸福に思えてきた」と戦後に多くの乗組員が語っている。

足が遅いと言われた「宗谷」の巡航速度は、わずか8.5ノット(時速約16km/h)。最高速も12ノット(時速約22km/h)と凄まじく遅かった。 戦時急造輸送船よりも遅いので艦隊行動が出来ず、単艦で先に出港していながら僚艦に途中で追い抜かれるのは「宗谷」の恒例行事であった。

ここまで足が遅いにもかかわらず、なかなか攻撃が当たらなかったのは砕氷船ゆえの特殊な形状の艦首が派手な波飛沫を生み出し、これが敵に速度を誤認させたのではないかと言われている(実際、砕氷船の太平洋戦争中の生存率は他の船艇に比べて高い。「高島丸」ほか戦時中に沈んだ砕氷船も多いが....)。「宗谷」の足の遅さは釣りをするには最適だったようで、航海中に釣りを楽しむ乗組員も多かった。 対潜戦闘には欠かせない爆雷を「宗谷」も積んでいたが、爆雷投射機がないので甲板から足で蹴り落としていた。さらには、爆雷が水中を沈降して規定深度で爆発するまでの間に安全圏まで逃げられないほど足が遅かったので、爆雷には水中でゆっくり落ちるように落下傘がついていた。

「宗谷」が戦時中、非常な幸運に恵まれたのは事実ではあったが、その乗組員には戦死者もあれば悲劇もあった。トラック島空襲では乗組員が「子供に会うまでは絶対に死ねない」などと死亡フラグを立てまくった上に、艦橋に機銃掃射を受けてしまったために天谷嘉重艦長は重傷、副長は戦死、座礁した状態で全ての弾薬を使い切ったために航海長が総員退艦命令を下し、船と共に心中しようとした艦長を引きずり出して避難したが、「宗谷」は生き残った。

この事は幸運にも思えるが、その裏では天谷艦長は艦を放棄した責任と測量隊全滅の責任を取らされ更迭、後に拳銃自殺してしまうという不幸があった。

なお、「宗谷」の姉妹船の最期は以下の通りである。
天領丸 1945年5月29日 米潜水艦「スターレット」の魚雷攻撃により北海道宗谷海峡にて沈没、戦死者800名以上
民領丸 1944年2月14日 米潜水艦「フラッシャー」の魚雷攻撃によりフィリピンベルデ海峡にて沈没、戦死者4名

引揚船「宗谷丸」(S119)

戦後、一時GHQに接収された「宗谷」は間もなく日本に返還され、第二復員省所属の特別輸送艦(船舶運営会所属の引揚船)として台湾、ベトナムのサイゴン、葫蘆島、樺太からの引揚輸送を担い、1万9000人以上を舞鶴、北海道へと運んだ。

1946年3月23日台湾の高雄からの引揚者輸送中、船内で女児誕生。名付け親になった船長は「宗谷」の一字をとって宗子(もとこ)と名付けた。

GHQより返還されSCAJAP番号S-119が与えられた際、名前が一時期「宗谷丸」となり、国鉄連絡船の「宗谷丸」と名前が完全にかぶってしまい、一部の資料ではどちらの船を示すのかわからなくなっている。なので、「宗谷」船内で生まれた宗子さんは2人いる可能性もある。(朝鮮半島引き上げの際にも出産したと証言がある。同時期「宗谷丸(国鉄)」は国鉄の連絡船として復帰していたので「宗谷(特務艦)」であった可能性は高い)
高雄からの引き上げの際に船内で生まれた宗子さんは、宗谷が南極観測船として改造を受けた後にテレビの企画によって当時の「宗谷」の乗組員との再開を果たしており、1978年の解役式にも参加している。

1948年5月1日、運輸省の外局として水路局、燈台局、保安局からなる海上保安庁が発足、水路局の測量船とすることを目的に「宗谷」の獲得運動を開始した。

灯台補給船「宗谷」LL01

引揚任務終了後、「宗谷」は商船風に外見を改め、真岡-函館間の輸送業務に従事していた。 1949年8月1日、「宗谷」はGHQより正式に帰還業務を解かれた。

海上保安庁燈台局は民間からチャーターし灯台補給船(灯台視察船)として使用していた第十八日正丸を返還するのに伴いその代船を捜していた。この任務は当初「大泊」が割り当てられるはずだったが、老朽化が激しいため廃船、水路測量船として海上保安庁への所属が内定していた「宗谷」が候補に上がった。

8月13日に来訪した海上保安庁の係官福井静夫により調査された「宗谷」は使用可能と判断され、11月に小樽より東京港竹芝桟橋沖に回航された「宗谷」は、12月12日付で海上保安庁へ移籍した。創設まもない海上保安庁の保有する船艇の中で「宗谷」は最大の船となった。

石川島重工業で改装工事に着手、1950年4月1日に改装を終え、第7代目灯台補給船LL01「宗谷」となった。なおこの時期、船名が「そうや」と平仮名表記されている時期もあった。

灯台補給船時代に改修工事により船橋の構造が現在の物に近い形になり、煙突がやや長くなっている。

 灯台補給船とは、岬の先端や離島といった交通困難地に立つ灯台に対し、年に1回発電機の燃料や灯台守の生活必需品を海上から補給する任にあたるものである。
 当時全国には461基の灯台があり、このうち60数基が海上補給を必要とするものであった。 4月20日〜6月6日、第一次補給航海を実施した「宗谷」は、南極観測船転用のため灯台補給船を解役されるまでの5年半この任にあたった。灯台には接岸できる港が整備されているとは限らず、人里離れた灯台への補給任務は危険な岩場への接近が必要になるなど危険を伴うものであったが、海の深さを測るソナーを装備する宗谷はこの任務にうってつけであった。
 さらに、灯台の光の到達距離測定、音波標識・霧笛の音の到達距離測定、無線方位信号の電波到達試験、灯標、灯浮標の交換修理、灯台の新築資材運搬、灯台員の転勤の便船という「付帯業務」もこなしつつの航海でもあった。


1951年7月、日本海洋少年団連盟の結成式に参加、東京湾一周の公開訓練を行った。

灯台補給船時代の「宗谷」の異色の任務が奄美群島現金輸送である。アメリカ統治下にあった奄美群島が1953年12月25日に日本に復帰する事になり、それに伴い9億円の現金と通貨交換業務要員の輸送をするというものであった。12月20日、鹿児島を発した「宗谷」は21日名瀬に入港、各島を回り、25日に名瀬に帰港。27日には「日本復帰祝賀式典」に出席した国務大臣一行を乗せ、28日に鹿児島に戻った。明けて1月3日、再び名瀬に向かい、各島で米軍統治時代の軍票を回収し、通貨交換業務要員を乗せ、1月9日に鹿児島に帰還した。

 純白に塗られた「宗谷」は「燈台の白姫」「海のサンタクロース」と呼ばれ、多くの海上保安庁職員に親しまれていた。人里離れた灯台で働く人や家族にとって、年1度訪れる補給船は季節に関係なく”サンタクロース”なのである。子供たちは都会の匂いのするおもちゃや教材を積んでやってくる宗谷の来航を指折り数えて待ち望んだ。宗谷がやってくると灯台守とその家族は船上に招かれ、花が飾られ白いテーブルクロスがかけられた士官室で豪勢な食事が振舞われた。
 前述のとおり転勤の便船としても使われているから、先輩、同期、後輩との再会の日でもあった。これは、隣接する官舎に住んでいた灯台員の家族も同様である。
 また地域によっては船医の乗っている宗谷がやってくる日を年に一度の検診日と決めている村もあり、地域の人々の医療にも当たったことから、無医村の人々も喜んだ。
 
灯台見回り任務に当たっていた船は宗谷の他にもあるが、灯台守たちにこれほど愛された船は他になかったという。もっとも、前任の灯台視察船羅州丸、後任灯台補給船若草も白く塗られている。羅州丸、若草も含めての記憶で、宗谷だけが有名になったうえ、南極観測船、巡視船として姿は変えても長らく在籍していたから、関係者ならなおさら混同している可能性は高い。
  
1956年に公開された映画『ビルマの竪琴』では復員船として出演。灯台守を描いた映画として1957年に公開され大ヒットした『喜びも悲しみも幾年月』には、白く塗られた灯台補給船時代の「宗谷」が登場している。主人公有沢四郎(佐田啓二)、妻キヨ子(高峰秀子)ら一家を乗せ、北海道石狩灯台から新任地、長崎県男女群島女島灯台まで赴くシーンが一番長く出ている場面である。ただし、時系列は1933(昭和8)年前後なので、先々代の羅州丸の「代役」になる。『喜びも悲しみも幾歳月』は海上保安庁全面バックアップで撮影されており、初のカラー映画なのでロケ地、北海道石狩灯台まで紅白(それまでは白黒)に塗り替え、ロケを張った灯台に勤務していた現役灯台員とその家族も多数エキストラ出演している。「宗谷」を羅州丸の代役とはいえ出すのは自然な流れである。

「宗谷」を建造した川南工業は戦時標準船の大量建造で造船大手となったが、船舶設計能力に乏しく戦後の造船需要に対応できず、1950年に破産、1955年に倒産した。本拠とした香焼島造船所は三菱重工へ売却、現在の三菱重工長崎造船所香焼工場となった。

巡視船「宗谷」PL107

南極大陸~神の領域に挑んだ男と犬の物語~(仮題)



南極観測船への改造

朝日新聞記者矢田喜美雄の発案により日本学術会議の協賛を得て、1957年7月1日から1958年12月31日に開催される国際地球観測年(IGY)にあわせて日本は南極観測を行う事にし、1955年7月に開催された第1回南極会議に文書で南極観測参加の意志を伝えた。敗戦国という事もあり当初は参加に反対する声もあったが、米ソが賛成する形で日本の参加が認められ、同年11月に当時の鳩山一郎内閣が南極観測への正式参加を閣議決定した。

南極観測船の候補としては、国鉄の連絡船「宗谷丸」が当時国内に残存した砕氷船として最も高い能力を持っていたが、大型であるがゆえに改造費が増大する事が予想され、国鉄との間の金銭的な決着がつかなかったために、同年11月海上保安庁の灯台補給船「宗谷」の使用が決定された。

日本が担当する南極の観測地域は、プリンスハラルド海岸一帯で過去に欧米各国が上陸を目指して接近するもすべて失敗、当時の米海軍は上陸不可能と判断し「接近不可能」とした地である。現在でも南極の難所として知られ、最新技術の粋を集めて建造された第4代南極観測船「しらせ(2代目)」ですら昭和基地への接岸に失敗する事すらあるほど。

選考理由の一つには戦時中の運の良さもあり、「宗谷」の持つ強運に南極観測の運命を託したのかもしれない。

「宗谷」が南極観測船になることが決まると、「宗谷」に深い愛着を持っていた多くの灯台守やその家族に惜しまれることになった。海上保安庁灯台部の土井智喜部長は、宗谷の解任式で「灯台部として宗谷と別れるのは忍びがたいが、国民に少しでも明るい希望を与えることができるなら、誇りを持って宗谷を南極観測船にご用立てしようではありませんか...」と涙ながらに「宗谷」に別れを告げた。 宗谷の後任は大阪商船所属の客船だった「若草」が当たった。

 灯台部にしてみると、灯台視察船新発田丸を日露戦争の旅順湾閉塞作戦用に持っていかれ、その代わりとして、明治37(1904)年から41年間灯台視察船として活躍した羅州丸の戦災喪失(昭和20・1945年3月、米軍機の機銃掃射で浸水、沈没を避けるため岩礁に擱座)の記憶が薄れていない中で、また、灯台補給船を失うことになっている(沈没していないし代役は決定していても。乗組員も羅州丸から転出しているからなおさら。)。そのあたりの心情も考慮すると、灯台部長の落涙は単に「宗谷を失うのは惜しい」だけではないだろう。

11月24日〜12月12日には三菱日本重工横浜造船所のドックで総点検が実施された。
12月24日に灯台補給船としての解任式が行われ、同日をもって巡視船(PL107)へ種別変更された。(一般に南極観測船として知られる本船だが、海上保安庁での扱いは大型巡視船だった)
1956年3月12日に日本鋼管浅野船渠で南極観測船への改造工事に着手し、10月17日に竣工した。日本鋼管浅野船渠は、過去に「宗谷」がトラック島空襲のあと修理を受けた場所でもあり、また砕氷船建造のノウハウがあったことから、「宗谷」の後継船(艦)である「ふじ」「そうや」はいずれもここで建造されている(1995年閉鎖)。

この改造の要点は、砕氷能力の引き上げと、南極往復を可能とする航続距離を持たせる事で、以下の工事が実施された。

両舷にバルジを設け、船体を二重外板にするとともに復原力を増す。船首部は板厚25ミリの鋼板製で喫水線に対し傾斜角27度の新船首とし、他の主要外板も旧外板との合計板厚が25ミリとなるよう二重張りとする。 主機械は、2,400馬力ディーゼル・エンジン2基とし、2軸推進とする。航続距離15,000海里、連続行動60日分の燃料と清水を搭載する。 乗組員、観測隊員130名が乗船し、観測資材400トンを搭載する。 小型ヘリコプター2機の格納庫及びヘリ甲板とセスナ機の架台を設ける。

船首を切断し、エンジンも撤去換装する大改造であった。 この改造工事で取り外された1軸スクリュープロペラは兵庫県の海技大学校に展示されている。 この改造で「宗谷」の砕氷能力は30センチから1メートルに引き上げられたものの、氷海を航行する砕氷船としては最低限の能力であり、設計者たちも「これでいける」という実感はまるでなかった。改造工事を取り仕切った海上保安庁の水品政雄船舶技術部長は「これがわが国の国力の限界。…我々はこの能力で最善を尽くそうと思っている」と語った。

宗谷、南極へ

1956年11月8日、東京・晴海埠頭で1万人以上の大群衆に見送られ、宗谷は第一次南極観測の航海に出発する。南極観測隊員53名、「宗谷」の乗組員77名、樺太犬22頭(オス犬20頭・メス犬2頭)、猫1匹、カナリア2羽を乗せ、南極まで2万キロの日本人の底力を示す運命の航海が始まった。
(この時乗っていた猫は三毛猫のオスであり、航海の安全を願って「宗谷」に乗せられた。南極へ向かう途中で「タケシ」と命名され第一次越冬隊に参加後、日本へ無事帰国した後に行方不明となっている)「宗谷」は出港してすぐの11月15・16日にフィリピン西方洋上で台風19、20号にダブルで遭遇、横揺れが38度・縦揺れが20度にも達し、「宗谷はえらく揺れる船」という評判に。この時、搭載していた水上機も破損してしまった。
この揺れの原因は、横揺れを軽減するためのビルジキールと呼ぶ細い板を、氷を割るのに邪魔という事で取り払ってしまっていた事に起因する。激しい揺れにより不安に陥った隊員達は「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされた事を思い出し、戦後取り払っていた艦内神社が艦橋に再び鎮座する事になる。
第一次南極観測では、東京水産大学の練習船「海鷹丸」(2代目、元海軍給糧艦「荒埼」である初代とは別の船)が随伴船として共に南極海へと向かい、「宗谷」の行動をサポートした。

1957年1月24日、「宗谷」は南緯69度東経39度の地点に接岸に成功し、1月29日観測隊はオングル島に公式上陸してここを昭和基地と命名。「宗谷」の強運は不可能を可能にした。

だが、帰路で厚い氷に閉じこめられ帰れなくなる。船長の松本満次は独力での脱出を目指してギリギリまで粘ったが、2月25日に外洋までわずか5キロの地点で全く身動きがとれなくなり、結局はソ連の砕氷艦「オビ」に救出された。 この時「宗谷」は「オビ」の後についていくのが精一杯で、性能の差をまざまざと見せつけられたという。

日本への帰還中の1957年3月4日、ケープタウン沖の暴風圏で「宗谷」は最高片舷62度に及ぶ横揺れを記録した。

第二次南極観測は、 国際地球観測年に合わせて南極越冬を行う、南極観測事業の本番というべきプロジェクトであった。そのためには宗谷より砕氷能力の高い船舶を使用することが望ましいとされたが、適当な船が見当たらないので引き続き宗谷が従事することになった。第一次の経験を踏まえて以下の大改造が施された。

甲板を全通のフラッシュデッキへ。前部マストを門型に改造。4分割したビルジキールを設置。搭載機をセスナからDHC-2型ビーバー「昭和」号に変更。

「宗谷」は第一次の反省を踏まえ出港を1ヶ月繰り上げたものの南極の分厚い氷に阻まれ、ダイナマイトによる発破を繰り返しても航路を切り開けず昭和基地への接近に失敗、スクリュープロペラの1翼が根本から折損した。なんとか自力で氷海を脱出し、アメリカ海軍の砕氷艦「バートン・アイランド」の支援を受けて昭和基地へ再接近を試みるが、水上機を使い越冬隊を救助するのが精一杯で、樺太犬の救助を断念せざるを得なかった。これがタロとジロの逸話につながる。

第二次南極観測の失敗の結果、 地球観測年終了後も観測事業の延長が決まった。「宗谷」は昭和基地への直接接岸による物資輸送を諦め、大型のヘリコプターを用いた航空輸送に対応するために大型の飛行甲板を増設、ヘリコプター吊上げ用のクレーンを設置。排水量2700トン弱の船体にヘリコプター4機と水上機1機を積み込む「ミニ空母」と呼ばれる状態になった。また船上観測設備も一新され、この時期にほぼ現在の「宗谷」の姿になった。

1958年の第三次南極観測では基地に残されたソリ犬15頭のうち、タロ、ジロの2頭の生存が確認されるとともに、雪に埋もれていた雪上車なども含めて昭和基地の施設が無事であることが確認された。空輸による58回の補給が敢行され、村山雅美を隊長とする14名の越冬隊が成立した。 越冬隊は内陸調査を行い、基地から350km地点まで到達した。

1959年の第四次南極観測では、第一次観測で「宗谷」の救助に当たった「オビ」との共同観測となった。越冬隊は、嵐の中を犬の餌を与えに外出した福島紳隊員が行方不明(8年後に遺体発見)になる事故が発生したが、さらなる内陸探検を敢行し、南緯75度まで到達した。

1960年の第五次南極観測は、「宗谷」は船体の傷みが激しくリベット1400本の打ち直しなど大規模な補修を施した。海上保安庁でのパイロット不足により通常の業務に支障をきたす事態になり、南極観測の打ち切りが決まった。

1961年の第六次南極観測は、「宗谷」最後の南極行きとなった。この年は南極観測船「宗谷」にとっては過去最悪の天候の状態で、昭和基地まで200kmほどの地点までしか近づけなかった。搭載機が安心して飛べる好天の日はわずか5日しかなかった。それでも搭載機で航空測量、写真撮影を敢行し第五次越冬隊を収容し、昭和基地を閉鎖した。1962年4月17日に日の出埠頭に帰還。以降、1965年の「ふじ」による再開まで日本の南極観測事業は一時途絶えることになる。

南極観測船時代のエピソード

船内では様々な催し物が行われた。赤道祭や持ち寄った楽器で音楽会、酒保「みどり」や酒場、ヘリ甲板で映画を上映する「テアトル宗谷」地質学や航海術などを講義する「宗谷大学」など
1956年12月5日、第一次南極観測で南極へ向かっている途中、インド洋上で幻の流星群に遭遇。ほうおう座流星群と名付けられ1時間に500個程度の流星が出現する派手な流星群だったと言われている。この流星群は100年以上行方不明だったブランペイン彗星である事が近年判明した。2014年12月2日に小規模ながらも再出現した。
特務艦時代に引き続き船上では釣りが行われ、インド洋ではトビウオが船内に飛び込み日本の遠洋漁業船が鮪を南氷洋では捕鯨船団からクジラ肉を「宗谷」へ直接寄付している。
「海鷹丸」船長から「宗谷」が通った後は魚の道ができると言われる。
第一次南極観測ではコウテイペンギンを持ち帰ろうとしたが、「オビ」の救助が到着する前に南極へ返してしまったので失敗している。代わりにケープタウンでケープペンギンを購入して日本へ持ち帰っている。
第一次南極観測時、当時柔道が流行っていたケープタウンにて柔道五段の「宗谷」乗組員が柔道の講習会に招かれた時に空手の型を披露しそれが南アフリカの空手文化の始まりとなった。
第二次南極観測では救助に来た「バートン・アイランド」が氷に乗り上げてしまったので「宗谷」が救助しようとした事があった。「バートン・アイランド」と「宗谷」をつなぐ綱は切れて失敗した翌日「バートン・アイランド」は氷を爆破し脱出に成功した。
第ニ次南極観測の往路で正体不明の大型生物を目撃。「南極ゴジラ」と呼ばれている。
改造工事中に伊勢湾台風の上陸が予想されため改造途中でドックを出て他の船とともに沖合で避難していた所、ヘリ甲板が風にあおられ錨の固定が外れて流されている。運良く他の船には衝突しなかった。
第三次南極観測時に海上保安庁長官が第二次では消えていた「宗谷」を守る幸運の星が復活しているから第三次観測は成功すると明言される。
第四次南極観測時シンガポールに向かう途中アメリカ海軍の機動部隊や台湾海軍の艦隊に遭遇している。
第四次南極観測ではケープタウンで豚を二頭購入して昭和基地で繁殖させようと持ち込まれたが寒さに耐え切れず死んでいる。
第四次南極観測からの往路でケープタウンへ寄港した際にベルギー隊からグリーンランド・ハスキー犬をプレゼントされている。名前はベルカ(またはベルジカ)
1960年4月16日、米占領下にある沖縄からの要望で第四次南極観測の帰途に那覇に寄港した。
当時放映されていたドラマ「月光仮面」の背景に南極観測船時代の「宗谷」が偶然写り込んでいるシーンがある。
ケープタウンに寄港すること12回、その都度一般公開を行い人気を博し、南アフリカ共和国から宗谷をモデルにした南極観測船R.S.A号の建造を日本の藤永田造船所に依頼するまでに至った。

「宗谷」は派遣回数と同じ回数の修理・改装を繰り返し、6回の観測任務を務め上げた。 1965年南極観測再開に伴い、南極観測船任務を後継の「ふじ」に引き継いだ。

「北の海の守り神」

南極観測船としての任務を終えた「宗谷」は、伊勢湾で開催された観閲式に参加。他の巡視船を従え運輸大臣・海上保安庁長官を乗せ、海上保安庁の事実上のフラッグシップとしての雄姿を披露した。

通常の巡視船としての任務に就くことになった「宗谷」は、1962年6月15日、日本鋼管浅野船渠に入渠、観測機器や航空機関係の重装備を撤去した。 8月1日に改装工事を終えた「宗谷」は、関東地方を管轄区域とする第三管区海上保安本部に着任した。 第三管区海上保安本部に着任した宗谷の最初の任務は、三宅島の雄山噴火で避難していた児童・学童を島へ帰還させることだった。元南極観測船に乗れると子供達は大喜びだったという。

1963年4月1日、北海道を管轄地域とする第一管区海上保安本部に移籍、函館港を母港とした。この際、第一管区海上保安本部所属の船艇を集めて観閲式が行われた。 巡視船としての「宗谷」の任務は、海洋調査、漁業監視、救難、医療支援、流氷速報、災害救援など多岐にわたる。さらには海上保安官候補生を乗せる実習船として長距離練習航海に出ることもあった。

時は北洋漁業の最盛期であり、日本の漁船は千島列島沖からカムチャッカ半島沖、さらには遠くベーリング海にまで進出していた。海難の連絡を受けてから北海道を出航するのでは間に合わないことから、常時北洋の漁場に待機(「ステーションパトロール」という)し、荒海に耐える巡視船が求められていたのである。冬季、宗谷は「えりも」(初代、PL13)などの第一管区の他の大型巡視船とともにステーションパトロールにあたり、千島からカムチャッカ東岸を巡回した。本格的な砕氷能力を持つ宗谷が巡回に加わったことで氷に閉じ込められた漁船の救助がすみやかに行われるようになった。また、宗谷には手術設備を持つ医療室もあり、多くの人々の命を救った。

第一管区時代の主だった任務をあげると、1970年3月16日には、釧路保安部の緊急指令を受け択捉島単冠湾に出動、流氷群に前進をはばまれ猛吹雪の中で航行不能になった漁船群19隻の捜索救難活動に当たり、生存者84名の救出に成功した。1975年8月対馬丸海上慰霊祭及び沖縄国際海洋博覧会に派遣。 1978年3月10日には稚内港流氷を粉砕し、漁船を外洋に誘導する緊急任務を受け色丹島沖から急行、3月12日に41隻の漁船を外洋に誘導した。 宗谷にとってこれが最後の砕氷任務となった。

 1977年8月には灯台の無人化が進んだことに伴い、宗谷の後任だった「若草」が解役された。(晩年の「若草」運用法は、大型灯台見回り船「あかぎ」と同じだった)。竣工から40年が経過した1978年7月にはついに解役が決まり、全国14の港を巡る「サヨナラ航海」8月3日〜9月3日を行い、1978年10月2日竹芝桟橋にて解役式を迎え現役を退く。解役式に海上保安庁の長官が出席したのは、現在のところ「宗谷」のみである。 「宗谷」の巡視船としての海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績をあげ「北の海の守り神」と呼ばれた。

現役時代の末期は維持費節約のため各所メンテナンスが疎かとなった結果、船長室での雨漏りやレーダーのブラックアウト、操舵輪が外れるなど次々問題が起きていたが、後続の砕氷巡視船設計のためにベル212型ヘリコプターの離着船実験や次世代南極観測船設計の砕氷実験などが行われていた。

「宗谷」退役に伴いヘリコプター搭載型大型巡視船が2年計画で建造され、名を継いだPLH01「そうや」が1978年11月に就役した。巡視船「そうや」は1978年7月に進水しており、海上保安庁に同名の船が2隻存在していることになる。「そうや」と「宗谷」は海上保安庁では「2代目そうや」「初代宗谷」と呼ばれて区別された。

保存船 宗谷

引退の決まった「宗谷」は、稚内市をはじめ各地の自治体から誘致された。しかし船の保存には莫大な維持費がかかるため「宗谷」の保存先は慎重に検討され、東京・品川区船の科学館永久保存展示されることが決まった。自治体が管轄していた保存船は保存コストを理由に千葉市の「こじま」をはじめ多くが解体・撤去の憂き目をみているため、財政状況に比較的余裕のある日本船舶振興会(現:日本財団)という後ろ盾を持つ船の科学館に保存先が決められたのは、今から振り返っても賢明な選択だったと言えよう。

1979年、「宗谷」は浅野ドックにて南極観測船時代のアラートオレンジ色に塗り直し、4月中旬に船の科学館前面海域に移動した。その後4月いっぱいで船籍を抹消し5月1日から博物館船(建築物)として一般公開を開始する予定だったが、公開間際に建設省から不特定多数の見学者を迎えるには引退した船といえど建築基準法の適用を受けなければならないという判断が下された。そのため、船の科学館側が交渉をおこない甲板上だけの公開が暫定的に認められ、5月1日甲板上の一般公開が開始された。

「宗谷」に建築基準法に適合した改装を施した場合、「三笠」のように現役時代の面影が無い「船の形をした記念館」になり果ててしまいかねなかったのだが、宗谷会と南極OB会、船の科学館館長が国に働きかけ、翌年建築基準法と船舶安全法が改正され海上に係留されているかぎり船は船ということで、船籍を保有し船舶安全法を満たしていれば船内の公開ができるようになったので、船籍を維持することになった(これにより毎年定期検査及び中間検査を受けている)。

1980年7月20日専門委員会の評定を受けた建設大臣の許可を得て船内の一般公開を始めた。1983年日本フローティングシップ協会設立と同時に所属(フローティングシップとは海上に浮かべて繋留し、保存、公開している歴史的に価値がある船のことをいう)。1996年、南極観測開始40周年の影響もあり年間約90万人が訪れた。同年大規模な修復工事が行われた。

2006年には南極観測50周年を記念して「宗谷」とタロ、ジロが写った切手と記念硬貨の発行及び、南極OB会から初代「しらせ」に「宗谷」の油絵が寄贈され、8月に見学者670万人突破、11月8日には宗谷南極観測出港の再現が「宗谷」で行われた。(「宗谷」の油絵は初代しらせ退役時に南極OB会に返却され、2008年11月に艤装工事中の2代目「しらせ」に寄贈された)

2008年2月16日には「宗谷」の戦友会「軍艦宗谷会」が中心となり、靖国神社より権宮司を招き誕生70年を祝う古希祭が執り行われた。 参加した人々は「宗谷」の建造や改造に関わった者、特務艦、復員船、灯台補給船、南極観測船、巡視船様々な時代の「宗谷」に関わった人々が集まった。

2014年、本船が係留されていた船の科学館前がクルーズ客船の客船埠頭となることが決まり、先行きが懸念されていたが、江東区の青海客船ターミナル横(かつて羊蹄丸が係留されていた場所)に移すことになり、2017年9月23日にタグボートや陸上のウインチによる曳航によって移設された。自力航行ではないとはいえ、「宗谷」が動くのは実に37年ぶりの事であった。 これに合わせて南極観測船当時の雰囲気を極力再現しつつ、3か月間の修復工事が行われ、2017年4月1日に一般公開が再開された。この修復工事の前の宗谷は、長年の展示係留で展示物は色あせマストや船体も随所が錆びるなど傷みが目立つ状態であったが、内外装とも塗り直され船内の展示室も一新され、目につくところはかなり綺麗になった。

現況

散策記録 #7 初代南極調査船 宗谷


「船の科学館」本館は老朽化により2011年10月に閉鎖され、「宗谷」と並んで保存されていた青函連絡船「羊蹄丸」も撤去、開館しているのは「宗谷」と屋外ミニ展示場のみとなった。永久保存が決まっている「宗谷」だけは保存工事が随時行われているものの、日本財団からの支援だけでは資金が不足しており、工事のために募金が募られている。なお公開エリアになっているのは上甲板周辺だけであり、神棚のある海図室や、下甲板にある機関室は外部から一部が覗けるだけである。非公開エリアは備品なども含めて巡視船解役当時のままだという。

保存船としての「宗谷」は、現在も海上保安庁特殊救難隊の訓練所としても使われている。 1980年代までは通信室がアマチュア無線の送信所としても使われていた。たび重なる改造により戦前の面影はほとんど残っていないが、船橋前から船内へ続く短い側舷外通路は建造当時からの形を保っている。

2016年10月13日、巡視船PM89「たかとり」退役により本船が現役時に竣工した巡視船艇は全て退役した(「たかとり」は1978年3月24日に竣工し同年5月14日に「宗谷」が最後の観閲船を務めた海上保安庁創立30周年記念観閲式に最新鋭船として参加している)。これにより「宗谷」と入れ替わりで就役したPLH01「そうや」が海保船現役最古参となった。「そうや」は既に船齢35年を超えているが堅牢な船体・機関等はまだまだ第一線での任務に耐えるとして2009年度予算で大規模な延命工事を施されており、第一管区海上保安本部の基幹船として今後も長く活躍することが期待されている。詳細は当該記事に譲るが、2代目「そうや」もPL107から引き継いだ名に恥じない活躍をしており、初代「宗谷」からその類稀な幸運長寿を引き継いだのであろうか。

2019年12月28日には再度一般公開を中止し、翌3月末まで保存整備工事が行われた。この保存工事は木甲板や外板の一部などを交換する大規模なもので、前回の修復工事で手付かずだった非公開エリアのメンテナンスにも手がつけられ、過去の調査で構造材の腐食が指摘されたバルジ内にも修復が施された。また万が一船体の外板に穴が開いても浸水しないよう、内側から8mm鋼材が貼り付けられ二枚重ねにされた。再公開は新型コロナウイルス感染症の拡大によりいったん延期されたが、2020年7月から再開した。

擬人化

特務艦時代に主計長を務めた塩満康裕の回想によると、当時の塩満は本船の大きな丸い船尾を女性の尻に見立てて「おばさん」と呼んでいた。また、1960年代に発売された『昭和基地物語』によると、第二次南極観測に向かう途中に催された赤道祭の時に、観測隊員の手によってレーダーを簪に船体色を着物の色に見立てた姿で描かれたという。

なお厳密には擬人化と異なるが、上記の『宗谷物語』ではトラック島空襲を描いた第7話「船霊と白ネズミ」で、宗谷の船霊にまつわる不思議なエピソードが描かれた。「ある夜、多くの船から女性の船霊が退船していったが、宗谷の船霊だけは引き返した。翌日の空襲で宗谷だけが生き残った」というものである。

Pixivでも『艦隊これくしょん』(艦これ)により艦船擬人化がメジャーになる以前から、「宗谷」をモチーフにした船舶擬人化/商船擬人化キャラクターが投稿されていた。男性キャラクターとして擬人化されたものも見受けられる。

【擬人化】宗谷
【Web再録】どうも、宗谷です。
PL107 宗谷
宗谷擬人化



商業誌では、MCあくしずVol.49〜52に長谷川竹光氏デザインの「宗谷」擬人化キャラクターが掲載された(下記のイラストはファンアート)。

宗谷_第一次南極観測



オリジナル艦娘としてもいくつかのデザインが発表され(→海保船これ)てきたが、2021年5月21日にはついに『艦これ』の艦娘としても実装され、その際には船の科学館公式twiterも反応した(→宗谷(艦隊これくしょん))。

宗谷にゆかりのある艦船

開南丸:日本人による初の南極探検(白瀬矗)に用いられた船。
ヴァリャーグ:ロシア海軍の防護巡洋艦日露戦争中に日本海軍に拿捕され「初代宗谷」となる。
大泊:日本海軍唯一の砕氷艦。巡視船時代の宗谷と同じく、流氷に閉じ込められた船の救難やソビエト当局との折衝にあたった。
羅州丸: 羅州丸もロシア・ソビエトと縁があり、帝政ロシアの船「アルグン」が日露戦争で拿捕されて「羅州丸」と改名。旅順湾閉塞作戦用沈船にされた灯台視察船新発田丸の代わりとして任に当たっている。
長門連合艦隊旗艦として最もよく知られた軍艦。海上警備組織の旗艦という意味では宗谷の「先代船」であり、宗谷と同時期に横須賀を母港にしていた。
あかぎ:宗谷時代の「付帯業務」が主任務になったという意味では「後継船」。
若草 晩年の運用方法は、光波(灯台の光)、音波(霧笛)、電波標識の到達距離測定や精度観測などで、大型灯台見回り船「あかぎ」と変わらなかった。
第十八日正丸:戦時標準船「戦標船」の生存組でもある。
オビバートン・アイランド:南極で宗谷の救援にあたったソ連、アメリカ合衆国の砕氷艦。
こじま(PL-106):元鵜来型海防艦「志賀」。宗谷とともに保存船となっていた数少ない旧日本海軍艦船・巡視船であった。消防法に抵触した事から1998年に解体されている。
そうや(PLH-01):巡視船宗谷の後継である砕氷巡視船。海上保安庁として初のヘリコプター搭載型大型巡視船で、函館を母港にした宗谷と異なり、釧路を母港にしている。
つがる(PLH-02):函館を母港にするヘリコプター搭載型大型巡視船。そうやの量産型であるつがる型の第1船で、耐氷構造を有している。
ふじ(AGB-5001):南極観測船宗谷の後継である砕氷艦名古屋港で保存されている。
羊蹄丸:船の科学館に「宗谷」とともに2011年まで展示されていた青函連絡船。2013年解体。
開陽丸 摩周丸 海王丸 日本丸 氷川丸 ふじ しらせ(初代): フローティングシップ協会所属の他の船

関連タグ

宗谷(無印) 宗谷(砕氷艦)(誤記)
東京国際クルーズターミナル駅 - 船の科学館の最寄駅
昭和基地 特務艦 貨物船 巡視船 流氷 南極観測船 南極大陸
幸運船 砕氷船 異能生存艦 商船擬人化 船舶擬人化 艦船擬人化
宗谷いちか - 名前は本船に由来する。

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