名は「丸」をつけない「開陽」とも表記される。「夜明け」を意味する艦名の命名者は、オランダ留学中の榎本釜次郎(榎本武揚)
艦歴
幕末の1863年に、幕府がオランダに発注し、1865年に進水したフリゲート。3本マストで蒸気機関を備え、当初は滑腔砲20門、最新式の施条クルップ砲6門の予定であったが、デンマーク戦争での近代海戦を目にした榎本達留学生の独断で施条クルップ砲は予定の3倍の18門、その他に滑腔砲8門と武装は格段に強化され、排水量は2590トンを誇り、オランダ海軍士官が「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦は無い」というほどの強力な大艦であった。発足したばかりの幕府海軍は諸外国から買い入れた中古の軍艦や輸送船の寄せ集めであり、西洋諸国の新鋭艦に対抗できる有力な軍艦が求められていたが、開陽丸はその要求に見合う軍艦であった。
本艦の建造時期は、帆船から汽船、木船から鉄船に移り変わる造船技術の激動期に当たっている。当時既に大型艦船は鉄製艦が一般化しつつあり、オランダ側からもそのようにした方が良いのではないかとの提案もあったが、一刻も早く入手を望んだ幕府側は木造銅張りを選択する(これが後の暴風雨によるあっけない喪失に繋がる)。榎本らの乗組で1867年に横浜に回航され、新生幕府海軍の主力艦として大いに期待された。
だが同年には大政奉還・王政復古がなされ。年明けの1月2日、大坂港の警備に当たっていた開陽丸は薩摩藩の平運丸を砲撃し、戊辰戦争の引き金をひいた。
戊辰戦争緒戦の鳥羽・伏見の戦いが起こると、薩摩藩の春日丸、翔凰丸との阿波沖海戦で自らも被弾するも、春日丸を損傷させ、翔凰丸を自焼に追い込む事で勝利。これが蒸気船同士の日本初の開戦であった。鳥羽・伏見の戦いが幕府軍の敗戦に終わると将軍徳川慶喜は榎本と入れ替わりに開陽丸に乗船して江戸に帰還してしまった。置き去りにされた榎本は、富士山丸で江戸に帰ることになる。
榎本は開陽丸を新政府軍に引き渡すことを拒否。8月19日に幕府艦隊は江戸湾を脱走し、蝦夷地を目指すことになる。10月12日、仙台折浜(石巻市)で奥羽越列藩同盟が崩壊して行き場を失っていた大鳥圭介や土方歳三などの旧幕府脱走兵を収容。20日に蝦夷地鷲ノ木に到着し、大鳥、土方らによる箱館占領後の25日に箱館に入港した。11月11日、松前城を落とした後江差に向かう旧幕府軍の援護のため、江差に向かった。開陽丸の到着した同月14日には、江差はすでにもぬけの殻であり、榎本は操船に最低限必要な乗組員を残して上陸しこれを占領した。
しかし翌15日、天候が急変する。暴風に煽られ、乗組員の不足もあり座礁した開陽丸は身動きがとれなくなり、救援に向かった神速丸も座礁してしまう。榎本や土方が見守る中、開陽丸は荒波でバラバラになっていき、ついに海中に姿を消した。土方はそばにあった松の木を叩いて悔しがったといい、今でもその「嘆きの松」が江差町の旧檜山爾志郡役所前に残っている。
座礁から沈没まで時間があったので乗組員は全員上陸しており、死傷者はなかった。旧幕府艦隊の最有力艦である開陽丸を江差攻略に投入し無為に喪失させたのは榎本の開陽丸の能力を過信する余りの判断ミスであり、本艦喪失と新政府軍の装甲艦甲鉄(のちの「東艦」)購入により、榎本軍優位であった海上軍事力のバランスは一気に新政府軍優位に傾くことになる。
引揚げ
1975年、江差町教育委員会によって世界初となる水中・産業考古学の対象として、文化庁の援助で大々的な調査が行われた。引き揚げられた3万点以上の遺物は復元軍艦内に展示し、「開陽丸青少年センター」として公開されている。