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経歴編集

1855年に建造されたプロシア海軍の木造外輪式コルベット

プロシア海軍から英国商人、アメリカの会社へと所有者は変わり、名前もダンツィヒ号からイーグル号へと変わった。


1866年(慶応二年)に幕府が購入し名前も回天丸となり、同年の第二次長州征伐、1868年(慶応四年・明治元年)の品川沖での薩摩藩の翔鳳丸攻撃に参加。

同年4月に江戸城が開城され、徳川家臣団が移封されると新政府軍は幕府艦隊の引き渡しを要求する。榎本武揚はこれを拒否し回天を含めて8隻の艦隊を率いて品川を脱出し仙台へ向かう。途中で台風に遭い、3本マストの内、前部と中部の2本を失う。

8月末に仙台へ到着し、単独で偵察を行い帆船千秋丸を拿捕する。9月に入ると仙台藩などが次々と降伏し奥羽越列藩同盟が瓦解した後は蝦夷地に赴き、これの攻略に活動する。


蝦夷地で旗艦開陽丸が座礁、沈没した後は、徳川遺臣団による蝦夷島政府(いわゆる蝦夷共和国)海軍の旗艦となる。


箱館戦争では、明治新政府が新たに購入した日本で唯一隻の装甲艦である甲鉄奪取の為に蟠竜第二回天と出撃するも嵐で甲鉄に接舷斬り込み攻撃をかける予定の蟠竜とはぐれ、甲鉄拿捕要員の乗った第二回天も機関不調で脱落するに至る。

本艦には海軍奉行荒井郁之助の他にも陸軍奉行並土方歳三、そしてこのアボルダージュ作戦立案者とも言われるフランス海軍見習士官のアンリ・ド・二コールも乗船していたが、本来、回天は外輪船で接舷には向かず、この作戦全般の指揮並び接舷斬り込み攻撃の援護の為の存在であったにもかかわらず単艦での甲鉄奪取をはかり、1869年(明治二年)3月26日、宮古湾に停泊中の甲鉄に万国公法に則りアメリカ国旗を掲げて接近し、直前に日章旗を掲げ襲撃する。

しかし外輪船故に左右両舷に突出した水車により横面で接舷出来ず、艦首で乗り上げると甲鉄艦の低い乾舷もあいまって高低差が3mあまり生じ、接舷しているのが艦首だけの上に高低差もあり満足に奪取要員を送る事も出来ぬままガトリング砲をはじめとする甲鉄側の反撃によって艦長甲賀源吾は戦死、二コールは負傷、その他多数の死傷者を出し撤退する。(宮古湾海戦

この折に甲鉄が回天の接近を許したのは油断もあるが、江戸脱出の際に嵐で回天が前部・中部マストを失い、仮の前部マストを備えつけて修理しただけの状態のままで回天と識別出来なかった為とも言われる。

その後も幾度か新政府艦隊と交戦するも5月7日の箱館湾での海戦で機関部に被弾し、以後浮砲台となり、5月11日、乗員は回天を放棄して五稜郭に撤退。遺棄された本艦は新政府軍に焼却された。


要項編集

排水量710t
全長70.1m
全幅10.4m
速力12ノット
備砲50斤カノン施條砲一門・40斤施條砲十門・15ドイムホイッスル砲二門

逸話編集

宮古湾海戦の折、後の連合艦隊司令長官東郷平八郎が乗艦していた薩摩藩軍艦春日も宮古湾に停泊しており、彼はこの海戦を目の当たりにする事となった。

後にその折を述壊した東郷はその奇策を評価し、回天艦長甲賀源吾を天晴な勇士と称賛したと言われる。


関連タグ編集

幕府海軍 コルベット(軍艦) 珍兵器 軍艦

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