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概要

しらせ」は、日本の南極観測船。同名の「初代しらせ」と「二代目しらせ」が存在し、日本の南極観測船としては3代目と4代目にあたる。文部科学省(旧文部省)に所属するが、実は海上自衛隊にも所属する自衛艦(実質的な軍艦)でもある。

名称は南極の白瀬氷河に基づくものとされるが、その白瀬氷河の名付けのもととなった南極探検家の白瀬矗が実質の由来であることは言うまでもないだろう。

初代しらせ(退役)

日本の3代目南極観測船。艦番号AGB-5002。通称「初代しらせ」「しらせ5002」。現在は観測船としては退役したが、後に民間に引き継がれ、気象観測船「SHIRASE-5002」に改称して千葉県船橋港にて一般公開されている。

自衛艦初の基準排水量1万トン越えの大型艦であり、昭和に建造された自衛艦の中で最大。平成ましゅう型補給艦が竣工するまでは海自最大の艦であった。その能力は先代の南極観測船である「宗谷」「ふじ」を大きく凌駕し、「ふじ」の2倍、「宗谷」の6倍の能力とも言われ、就役当時は砕氷艦のビッグ5砕氷船のビッグ7と呼ばれた。

ヘリコプター3機を常備し、観測隊の要望によっては固定翼機のセスナやピラタスも搭載した。前任の「ふじ」から輸送用のS-61A-1と小型観測用のベル47Gの二機種のヘリコプターを飛行隊ごと引き継いでいる。S-61A-1の後継機としてMH-53Eを採用する予定だったが実現には至らなかった。ベル47Gは先々代の「宗谷」から運用されているもので、本船にも搭載されていたが、1987年に同機種は海自から退役し、1993年から後継機としてOH-6Dを搭載した。

南極の昭和基地への接舷回数は日本の歴代南極観測船の中で現状最多。25回の南極航海の中で接舷できなかったのは僅か1回だけである(2代目ですら既に2回失敗している)。南極航海中にはオーストラリアの砕氷船を2回救出、急病人の発生したスペイン漁船を救護したり、さらに就役直後の1983年の三宅島噴火ではヘリコプターによる偵察を行うなど、南極観測以外でも活躍を見せた。

1983年の第25次隊以降、第49次隊まで計25回にわたって南極観測の輸送支援を実施し、2008年7月30日に横須賀にて自衛艦旗を返納。3代目観測船及び自衛艦としての役目を終えた。この間の行動日数3,803日、総航程1,006,562km、輸送人員1,498人、輸送物資量約23,900トンであった。

その後は一時廃艦の危機に晒されたものの、民間の気象情報会社「ウェザーニューズ」が購入して気象観測船「SHIRASE-5002」に改称して千葉県船橋港にて一般公開されている。後にその所有権はウェザーニューズ関連組織の一般財団法人「WNI気象文化創造センター」へと移されている。

在役期間1982年~2008年
観測船就役期間
  • 1983年~2008年
  • 第25~49次南極地域観測に参加
全長134m
最大幅28m
基準排水量11,600t
満載排水量18,900t
速力19kt
機関三軸30,000馬力
搭載能力
  • 貨物重量:約1,000トン
搭載機
  • S-61A-1輸送ヘリコプター×2機
  • ベル47G / OH-6D小型観測ヘリコプター×1機
乗員数
  • 観測隊員:約60人
  • 乗組員:171人~174人

二代目しらせ(現役)

日本の4代目南極観測船。艦番号AGB-5003。通称「二代目しらせ」「しらせ5003」。老朽化した初代の「しらせ」に代わる代艦として建造された。

船体には耐摩耗性に優れるステンレスクラッド鋼や、砕氷補助のための融雪用散水装置を採用するなど様々な新機軸を取り込んでおり、これにより氷厚約1.5メートルまでの平坦氷海域であれば3ノットでの連続砕氷を可能とした。また燃料流出防止のための二重船殻構造の採用、廃棄物処理システムの採用など、環境保全も意識されている。

初代「しらせ」よりも大型化され、物資搭載量も増えたほか、CH-101大型ヘリコプターを2機搭載するなど航空運用能力も強化されている。一時期、トラブルで民間観測隊の小型ヘリを収容した際は6機を同時搭載したこともあった。

在役期間2009年~
観測船就役期間
  • 2009年~
  • 第51次以降の南極地域観測に参加
艦番号AGB-5003
全長138m
最大幅28m
基準排水量12,650t
満載排水量20,370t
速力19kt
機関二軸30,000馬力
搭載能力
  • 貨物重量:約1,100トン
  • デッキクレーン:4基
  • コンテナセルガイド:2基(コンテナ56個)
搭載機
  • CH-101輸送ヘリコプター×2機(常備)
  • 中小型ヘリコプター×数機(非常備)
乗員数
  • 観測隊員:約80名
  • 乗組員:約180名

余談

概要で述べた通り、南極探検家の白瀬矗に由来する白瀬氷河から船名を取られており、自衛隊や日本の政府組織に所属する艦としては唯一の人名に由来する艦とも言える。日本では旧日本海軍時代から「人名をつけた艦船が沈んだらその人物に失礼」という明治天皇の意向が強く反映されたとされ、以来日本軍・自衛隊や日本の政府組織では人名を艦船に付けていなかった。

「しらせ」専属のヘリ運用部隊としてしらせ飛行科が編成されており、これは海上自衛隊で現在唯一の母艦航空隊である。海自は艦ごとの航空隊を編成しておらず、陸上の航空基地から都度ヘリを派遣してもらう形で搭載している。もっとも、しらせ飛行科も他部隊からの支援を受けている。

海自に属する自衛艦のため、艦内には武器庫もある。海賊対策や立入検査隊用として64式小銃をはじめ十数丁の銃器や銃剣が格納されているという(初代しらせは海自から退役しているので既に撤去されている)。

二代目「しらせ」武器庫内の画像インターネットアーカイブ魚拓につき読み込みが遅いので注意)

関連タグ

砕氷艦

ふじ:2代目南極観測船。日本で初めて南極観測船として建造された。

宗谷(船):初代南極観測船。歴代の南極観測船で唯一の海上保安庁所属であり、南極観測任務を解かれた後も巡視船として活躍した。

宇宙よりも遠い場所:実名で二代目しらせが登場する2018年冬アニメ

経歴

長いため以下に格納。

初代しらせ

建造に至るまでの経緯

  • 1976年3月:「ふじ」が就航した1965年から11年経ち、文部省南極本部は拡大する昭和基地の活動計画には「ふじ」の輸送能力では小さすぎると指摘。また「ふじ」の老朽化が進んでいることを理由に新船建造必要の理由とした。
  • 1977年7月:南極輸送問題調査会が発足し、新船は仮名で「AGB-X」と呼ばれるようになった。
  • 1978年3月半ば:当時海上保安庁巡視船に転じていた初代南極観測船「宗谷」により根室半島沖にて砕氷実験が行われた。この砕氷実験は「宗谷」最後の砕氷活動となった。
  • 1979年:「AGB-X」の基本要目として、リュツォホルム湾の定着氷の平均1.5mを速度3ノットで連続砕氷できること、観測隊員60名、観測物資1000tの搭載及び、海洋、気象、電磁波、地磁波等の観測室の設置。巡航速度15ノットで25000マイルの航続能力をもつことが定められ、仮名が「AGB-X」から「54AGB」に変わった。この基本要目を受けて、海上自衛隊の技術部は基本設計を行い、ドイツハンブルグの氷海試験水槽において設計確認試験を行い船型が決定された。艦首の砕氷部分の傾斜角は「ふじ」の30度に対し、21度になった。
  • 1981年:日本鋼管が建造費244億円にて受注し、同年3月5日、日本鋼管鶴見造船所にて起工した。

命名までのひと悶着

船名は先代観測船「ふじ」と同様に一般公募することになった。

  • 1980年:船名の一般公募を同年11月22日~12月24日まで実施。公募数は62275通(無効数872通)に及んだ。
  • 1981年2月26日:第1回「船名選考委員会」で選考方針を検討し、上位30位以内の中から「極光」「瑞穂」「白瀬」の3候補選出。
  • 1981年3月16日:第2回「船名選考委員会」において3候補から「白瀬」に決定され、23日報道発表された。
  • 1981年12月11日:防衛庁は進水式にて「しらせ」と命名した。
    • 一般公募による名称の応募数順位は次のとおりであった。1位さくら、2位やまと、3位しょうわ、4位おーろら、5位あさひ、6位みずほ、7位とき、15位しらせ。防衛庁は応募の趣旨を尊重し、公募順位2位の「やまと」を除く上位30位を候補として第1回の船名選考委員会に提出した。「やまと」は当時の宇宙戦艦ヤマトのブームが投票上位に入った背景にあったが、旧日本海軍戦艦大和のイメージが強く、砕氷艦には合わないという理由と、将来建造される新型艦の名称として残しておきたいという海上自衛隊の意向から外された。
    • 1981年当時の防衛庁通達では、海上自衛隊の砕氷艦の名称は「名所旧跡のうち主として山の名」と規定されていたため、日本初の南極探検隊隊長の白瀬矗中尉の名を付すことはできなかった。検討の末、昭和基地近くにある白瀬中尉の功績を称えて命名された広大な氷河「白瀬氷河」が存在することから、防衛庁通達は「名所旧跡のうち主として山又は氷河の名」と改正し、これにより「白瀬氷河」を由来とする「しらせ」の命名が可能になった。これにより「新砕氷艦手始めに命名基準を破壊する」と新聞に書かれてしまった。

就役から初の南極航海へむけて

  • 1982年11月12日:防衛庁長官、海上幕僚長ら参列のもと、自衛艦旗を授与され就役。13日、母港となる横須賀に回航された。25日、最後の南極行に向かう「ふじ」を見送る。26日から12月18日の間に慣熟訓練行い、翌年の1月17日から2月26日かけて航海訓練をおこなった。
  • 1983年4月15日~18日:東京晴海ふ頭にて、初の一般公開を行うとともに、文部大臣、防衛庁長官を迎え特別公開をおこなった。4月20日、東京にて最後の南極行を終えた「ふじ」を出迎えた。5月1日、三代目南極観測船を襲名。23日から6月24日にかけて日本一周する統合訓練を行い、この間に衣浦、呉、鹿児島、佐世保、室蘭、小樽で一般公開を行い、10万27人の見学者が訪れた。7月15日から9月30日まで鶴見造船所にて年次検査をおこなった。10月3日に発生した三宅島噴火に際して、しらせは三宅島沖に急行、10日まで航空機による偵察や物資の輸送に従事した。

初の南極航海

  • 1983年:
    • 11月14日、しらせは佐藤艦長以下乗組員174名、観測隊47名、報道5名、造船関係者5名、計231名を乗せ晴海埠頭を出港、この時ふじが随伴し観音崎で別れた。これが「ふじ」の最後の任務となった。その後順調に航海を続け、フィルピン東方、セレベス海、マカッサル海峡、ロンボック海峡を経由し、11月28日にオーストラリアのフリーマントル入港した。
    • 12月3日、初代観測隊隊長の永田武とアメリカ交換学者を乗せ出港して南下を続け、10日に南緯60度に達した。その後は南緯60度ラインに沿って西航し、15日に昭和基地の北北東278マイルの地点で氷海に進入した。氷海進入後は210マイルに渡る密氷度10/10の流氷域を2日間で走破し、17日から宗谷の時代から大利根水道と呼ばれている分離帯水路に到達し18日に通過した。同18日昭和基地の北西43マイルの地点から定時氷に突入しその地点から昭和基地への第一便となる空輸を行い、引き続き昭和基地沖を目指した。しらせは厚い氷に阻まれながらも着実に前進を続け、定時氷突入から18日目の1984年1月5日に難所を突破し、翌6日ふじによる1978年の第19次観測から数えて6年ぶりとなる昭和基地沖接岸を果たした。昭和基地沖接岸後は物資輸送も順調に進み1月13日には全ての輸送が完了し、観測隊の野外支援も1月末に完了した。
    • 2月1日、第24次隊を収容し昭和基地沖を離れ、昭和基地から300マイル離れたブライド湾に向かった。ブライド湾ではセールロンダーネ山に調査隊を送り込み、海洋生物の調査を行いながら20日間ほど留まった。23日調査隊を収容し北上を開始し、25日には氷縁を離脱した。その直後に乗組員に急病が発生しケープタウンに緊急寄港することになった。その後、モーリシャスのポートルイス、シンガポールを経由して4月19日、158日ぶりに晴海埠頭に帰投した。

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