概要
クライド・セスナ(1879年12月5日~1954年1月20日)により設立されたアメリカの航空機メーカー、セスナ・エアクラフト社のこと。
日本では軽飛行機の代名詞となっている。
略歴
1910年、カンザス州でカーディーラーとして成功していたセスナは航空博覧会を見て航空機に関心を持つようになり、ニューヨークのクイーン・エアロプレーン社で航空機製造について学ぶ。
1911年、セスナが最初の航空機、シルバーウィングを設計。何度も失敗した末、6月に初めて飛行に成功。カーディーラーをやめ、航空機の研究に専念することにする。カンザス州のような田舎では航空機がまだ珍しかったため、見世物飛行で収入を得る。
1916年、セスナが工場を取得。航空機を製造し、飛行学校として生徒を擁した。
1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦し見世物飛行の需要が減少したため、セスナは工場をたたんで実家に帰った。
1925年、セスナがウォルター・ビーチ(後にビーチクラフト社を創設)、ロイド・ステアマンとウィチタ市にトラベルエアー社を設立。
1927年、セスナは方向性の違いからトラベルエアー社を脱退。ヴィクター・ルースと共にセスナ・ルース・エアクラフト社を設立するが、ルースは設立1ヶ月後に持ち株をセスナに売却して事業から手を引き、会社はセスナ・エアクラフト社に社名変更。
1929年、セスナDC-6が成功を収めるが世界大恐慌が始まり、販売が激減。
1931年、セスナ社は破産申請を行い閉鎖された。
1934年、セスナの甥のドゥエイン・ウォレスの出資でウィチタ工場が再開。
1936年、セスナは会社をウォレス兄弟に売却し実家に戻る。ドゥエイン・ウォレスが社長となる。
1939年、第二次世界大戦勃発により航空機の軍事需要が高まる。セスナ社の双発プロペラ機T-50がアメリカ陸軍、アメリカ海軍に練習機(AT-17ボブキャット)として制式採用される。終戦後は自家用機やビジネス機向けの軽飛行機の製造に舵を切る。
1946年、セスナ140がヒット。
1952年、セスナT-37(トゥウィート)が初等ジェット練習機としてアメリカ空軍に制式採用された。
1953年、双発プロペラ機のセスナ310がヒット。
1956年、セスナ172(スカイホーク)が大ヒット。史上最も人気の高い軽飛行機と言われる。セスナ社唯一のヘリコプター、CH-1を発売。
1958年、セスナ150がヒット。
1964年、T-37に大幅な改造を加えた軽攻撃機A-37(ドラゴンフライ)がアメリカ空軍の親米中小国向け新型COIN機として採用された。
1971年、サイテーション500を発売しビジネスジェット機の分野に進出。サイテーションは現在のセスナ社を支える人気シリーズとなり、多くの追従者を生んだ。
1982年、単発ターボプロップの汎用機セスナ208(キャラバン)が初飛行。フェデラル・エクスプレス社の要請で開発された貨物機バージョン(カーゴマスター)が大ヒット。
1986年、セスナの軽飛行機がPL法による訴訟のターゲットとされ、賠償保険料増によりビジネス上のメリットが無くなり生産中止。大幅なリストラが行われた。
1996年、セスナ社が先頭に立ったPL法改正運動が実を結び、クリントン大統領がジェネラル・アビエーション再生法に署名。セスナ社は新たな軽飛行機工場を建設し、軽飛行機の生産・販売を再開。
主な機種
セスナ140
ある意味セスナの原点である2人乗りの軽飛行機。1946年から1950年まで製造・販売。
セスナ170
140を4人乗りにしたもの。1948年から1956年まで製造・販売。
セスナの代名詞とも言える軽飛行機。日本にも相当数導入され、軽飛行機であれば、ビーチクラフトだろうがパイパーだろうが富士重工(エアロスバル)だろうがなんでもかんでもセスナと言う風潮となった。
セスナ180
170のエンジンを換装し、胴体や尾翼を改良した。1952年から1981年まで製造・販売。
セスナ182
180の車輪の配置を胴体前部と中央部に変更した。1955年から1986年まで製造・販売。1996年から製造・販売が再開。
セスナ210
6人乗りの軽飛行機。1957年から1986年まで製造・販売が行われた。
セスナ206
210の改良型。1964年から1986年まで製造・販売。1996年から製造・販売が再開。
セスナ208
10人乗りの単発ターボプロップ機。湖や海の上でも離着陸できるようにフロートを付けたもの、貨物専用機版、胴体を伸ばして積載量を増やしたもの、貨物用ストレッチモデルを改造して14人乗りにしたものなど派生モデルが多い。
500シリーズ
1969年に初飛行したビジネスジェット機「サイテーション」シリーズ。操縦しやすさと維持費の安さに重点を置いたが故に性能は二の次になってしまったが、ベストセラーとなった。