八戸
はちのへ
1. 地名。青森県八戸市。
2. 1.に由来する施設などの名称。
2-1. 八戸駅
2-2. 八戸線
2-3. 八戸臨海鉄道
3.主として1.に由来するとされる苗字。
この項目では1および2-2、2-3を解説する。
この都市は青森県の太平洋沿岸、南部に位置し、20万人以上の人口を誇る。また、港が存在し、さらに工業も発達している。
重要無形民俗文化財としてえんぶり(初春の神事、東北各地で広く行われる新春をことほぐ芸能の一種)および八戸三社大祭(龗神社、長者山新羅神社、神明宮の神事であり7月の終わりから8月のはじめまで行われ、人形山車が神社の氏子として市中心市街地を巡行する)、騎馬打毬(長者山新羅神社に伝わる、乗馬者が2組に分かれ打毬杖を用い庭にある毬を自分の組の毬門に早く入れることを競う伝統競技、ポロのようなスポーツ。なお、同様の競技は日本ではほかに2箇所でしか伝えられていない)が存在する。
歴史
この都市の歴史は江戸時代にさかのぼる、この地域を治めていた南部氏(南北朝時代に甲斐よりこの地に渡り北東北地域を治めた豪族)は市内に存在した根城を経て盛岡を拠点としていた。
ところが盛岡藩2代目当主であった南部重直が寛文4年跡継ぎを決めぬままなくなり、お家騒動が起こりかねない状況であったため盛岡と八戸を二つに分け、それぞれに相続させる形となった。八戸の大名となった南部直房はこの地に八戸城(城とはいっても石垣などを持たない平城であった)を建築し、この地(現在よりもかなり広大であり、久慈市あたりまでがその範囲であったとされる。)を治めることとなる。
明治時代には城周辺部を三戸郡八戸町とする。大正時代から昭和時代にかけて港が整備され、昭和初期には周辺自治体を取り込み、八戸市となる。
また戦後には河口地域の整備が完了し、工業地帯として利用できるようになり、電力、製紙、金属工業などの工場が立ち並ぶこととなった。
この路線は八戸駅から久慈駅(岩手県久慈市に存在する駅、三陸鉄道北リアス線と連絡)を結ぶ鉄道路線であり、全線単線非電化のローカル線である。三陸縦貫鉄道と呼ばれる気仙沼線、大船渡線、山田線、三陸鉄道とセットで語られることがある。
また、IGRいわて銀河鉄道や青い森鉄道からの乗り入れ列車も存在する。
歴史
日本鉄道(日本初の私鉄であるものの、明治39年の鉄道国有法により国有化)が東北本線を山沿いに設置した(これは軍が「できるだけ沿岸部を避けて敷設するように」といわれたためらしい)ため沿岸部を接続する目的で敷設した路線(この状況では尻内駅、現在の八戸駅-湊駅、昭和60年に廃止)を元に、大正時代後期、鉄道省によりこの名称に変更され、沿岸沿いに路線を延伸(このときも軍が同様のことを要請したが今回は無視した)、昭和15年に完成した。
なお、この路線の鮫-久慈駅間は赤字路線であり赤字83線でも廃止が議論されている(議論が始まる前に廃止事業が中止された)。
東北地方太平洋沖地震により、路線にダメージを受け全線休止したものの、約1年後に復旧。しかし三陸縦貫鉄道経由の臨時快速は復旧のめどが立っていない。