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特務艦

とくむかん

戦闘には直接加わらず、特別な任務を担当する艦船の総称。支援艦船。
目次 [非表示]

概要

主に戦闘以外の任務に従事する艦船のこと。現代では、この種の艦船は洋上補給を任務とするものを中心に支援艦船と呼ぶことが多い。


日本海軍では、工作艦・運送艦・測量艦・砕氷艦などが特務艦艇に類別され、軍艦・駆逐艦潜水艦輸送艦などの艦艇と区別されていた。なお、日本海軍の場合、一般的な意味での輸送艦にあたるものは「運送艦」と呼び、アメリカ海軍の戦車揚陸艦高速輸送艦に当たる艦が「輸送艦」に類別される。


解説

諸外国では海軍によって買収された民間商船を改造したものが多く支援艦船として用いられ、日本海軍でも多くの民間船を徴用した特設艦船として運用したが、国内の民間船から買収の形で特務艦艇籍に編入されたのは「宗谷」のみである(ほかに工作艦「関東」など接収した外国商船を特務艦に改装した例がある)。


太平洋戦争前の日本海軍は海上護衛戦を軽視しており、にもかかわらず戦線を太平洋各地に広げてしまったため、多くの特務艦は味方の援護を得られない状態で輸送に哨戒任務にと酷使され、次々と戦没。海軍は輸送船の不足を補うため国内の商船を根こそぎ徴用した上、陽炎型夕雲型などの新鋭の一等駆逐艦まで輸送に駆り出す有り様となった。こういったわけで戦時中の船員の死亡率は軍艦乗組員以上に高く、日本の船乗りたちには海軍は非常に恨まれている。


開戦時から終戦まで生き延びられた特務艦は、「宗谷」や「大泊」などほんの一握りに過ぎない。


一部の特務艦は輸送船団と行動を共にする場合、護衛艦としての任務も兼ねることが考慮されており、高角砲や対空機銃のほか爆雷や水中探信儀も装備された。「間宮」は自衛用の14センチ単装砲2基が装備できるようになっていたが、実際には装備されず、陸上に保管することで食料等の搭載量を増やす運用を行っていた。太平洋戦争中には「間宮」「伊良湖」をはじめ、「樫野」「朝日」など多くの特務艦が潜水艦に襲われ沈められたが、「宗谷」は潜水艦と交戦しこれを撃破した記録がある。


日本海軍の有名な特務艦

標的艦

日本海軍標的艦

摂津

河内型戦艦の2番艦。駆逐艦「矢風」からラジコン操作される標的艦に改造された。


矢風

峯風型駆逐艦の6番艦。「摂津」の無線操縦艦だったが、後に「矢風」自身も標的艦に改造される。


運送艦

能登呂

能登呂 (水上機母艦)

後に水上機母艦に艦種変更。改造後も給油機能を持たされていた。


神威

神威 (水上機母艦)

「能登呂」同様、給油艦から水上機母艦に改造された。


測量艦

大和(初代)

御長寿!!先代大和

元はスループ海防艦を経て測量艦となる。日清戦争前の就役であり、当時としても旧式な鉄骨木造ながら堅牢な船体で昭和10年までの長きにわたり運用された。退役後も、少年刑務所の宿泊船として二代目「大和」が沈没した戦後まで海に浮かんでいた。


勝力

敷設艦として日本で初めて建造された艦船。第二次大戦前に測量艦に艦種変更。1944年9月、ガトー級潜水艦「ハッド」の雷撃を受けて喪失。


工作艦

関東

日露戦争で捕獲したロシア汽船「マンチュリア」 を工作船として改装。のちに特務艦籍に編入され日本海軍初の「工作艦」となる。メキシコで座礁した一等巡洋艦「浅間」の浮揚作業や、カムチャッカ沖で座礁沈没した防護巡洋艦「新高」の解体及び遺体の回収に従事するが、関東自身も1924年に福井県沖で遭難してしまった。1937年に「朝日」が工作艦として改装されるまで、日本海軍はしばらく工作艦を保有しなかった。


明石

工作艦 明石

日本海軍唯一の新造工作艦。太平洋戦争では日本海軍の前進基地であったトラック泊地で艦船の修理に活躍。トラック島空襲では爆弾1発が命中したが、不発弾のため損傷は軽微であった。トラック空襲の生き残りの艦艇に護衛されてパラオに退避したが、連合艦隊の主力(戦艦「武蔵」等)から取り残され、パラオ大空襲でなすすべもなく沈められた。


朝日

黄海海戦や日本海海戦などで活躍した敷島型戦艦2番艦。ワシントン海軍軍縮条約により練習艦となった後、潜水艦救難艦などを設置された。その後、海難で失われた「関東」の代艦として工作艦に改装された。


給糧艦

間宮

間宮

1923年に能登呂型給油艦の予算枠を流用する形で建造された。就役当時は世界最大の給糧艦であり、巨大な冷蔵庫・冷凍庫設備で肉、魚、野菜など1万8000人の3週間分の生鮮食品を貯蔵できたほか、こんにゃく豆腐パン菓子などの職人が軍属として大勢乗り込み、牛馬を生きたまま積み込んで屠殺後食肉加工することもできた。太平洋戦争勃発直前に竣工した「伊良湖」の就役まで、長らく日本海軍唯一の給糧艦だった。また、各艦の通信状況を傍受監視する無線監査艦の役割を兼ねていた。


太平洋戦争中は米海軍潜水艦から度々魚雷攻撃を受けた。1944年12月、米潜「シーライオン」に捕捉され、執拗な攻撃を受けて沈没する。「間宮」の喪失は対戦末期の海軍将兵の士気に大きな影響を与えたと言われている。


荒埼

荒崎

杵崎型給糧艦の4番艦として建造された。スラバヤ沖で触雷し航行不能になる深手を負いながら戦後まで生き延び、第一水産講習所(後の東京水産大学、現東京海洋大学)の練習船「海鷹丸」として活躍。 1956年に民間に売却され、大阪-高知間航路、日韓航路など変転を重ねて1969年、フィリピンで人知れずその生涯を終えた。


給兵艦

樫野

武蔵」の砲塔輸送のために作られた輸送艦だが、砲塔輸送後はもっぱら一般の輸送任務に従事した。


砕氷艦

大泊

三笠」の尼港事件救援の失敗の教訓から建造された、海軍初の砕氷艦。海軍唯一の砕氷艦として、北洋警備、対ソ外交の最前線を一手に担った。北洋警備の重要性に鑑み、砕氷艦が本艦しかないことが問題視され、新砕氷艦「恵山」を建造し「天領丸」型耐氷船とあわせ後継艦とすることが計画されたが、結局恵山は着工されず、海軍は天領丸型の2番船「地領丸」(「宗谷」)を購入したのみで、その宗谷も対米開戦に伴い南洋に回されてしまった。本艦は太平洋戦争中はソ連艦の臨検などに従事し、終戦まで残存した。海上保安庁で灯台補給船として使用される計画だったが、老朽化と長年の酷使から機関の痛みが酷かったため解体された。


雑用運送艦

宗谷

日本海軍特務艦 宗谷

海軍が老朽化した「大泊」の代船とすることを目的に購入した商船「地領丸」を改装した商船改造艦。人員及び物資の輸送以外にも測量・海洋調査・洋上哨戒・掃海・気象観測などあらゆる任務をこなす多用途支援艦として活躍した。また、特務艦ながら対潜装備として爆雷や水中探信儀を搭載しており、海防艦や駆潜艇と並んで潜水艦掃討にも参加、潜水艦撃破・撃退の戦果を挙げている。トラック島空襲で辛くも生き残った後は主に日本本土周辺の輸送任務に従事した。


戦後は、海上保安庁にて灯台補給船・巡視船を務めた。初代南極観測船として日本の南極観測事業成功の立役者となり、その後は海保唯一の砕氷船として、北洋漁業最盛期の北海道近海・北方海域において多岐にわたる任務で活躍。巡視船引退後も船籍を保ち、船の科学館博物館船兼特殊救難隊練習船として健在である。旧海軍の艦船としては唯一「船」として現存している


関連タグ

タンカー 特務艦娘 輸送艦

一等輸送艦第一号型輸送艦) - 計画当初は特務艦艇に類別され、特務艦特型(特々)と呼ばれたが、就役前に艦艇に編入された。

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