概要
日本郵船が所有していたT型貨物船で、1912年に進水。1941年に日本陸軍に徴用されている。
日本では太平洋戦争の最中に学童疎開船として使われ、疎開先へ向かう中でアメリカの潜水艦によって撃沈され(対馬丸事件)、多くの死者を出した悲劇として知られている。
対馬丸事件
1944年7月7日のサイパン陥落を受けて政府から、来る本土決戦に備え沖縄の子供達を日本の内地に疎開させるよう沖縄県知事・泉守紀へ指示が出ていた。同年8月20日、対馬丸は他の輸送船和浦丸・暁空丸、護衛艦の宇治・蓮とともに那覇を出港し長崎に向かっていた。
乗っていたのは多くが国民学校(現在の小学校)の生徒やその介助者などの一般人1600人余りであったが、軍属の関係者も多数乗船していた。また、この船団は学童疎開の第1陣だった。
8月22日の深夜22時すぎ、悪石島付近の海域でアメリカ海軍の潜水艦「ボーフィン」の魚雷攻撃を受け、老朽化していた対馬丸は速度が出せなかったため逃げ切れずに直撃、わずか11分後に爆発炎上し沈没してしまった。
同じ船団の他の船は二次災害防止の観点から救助を諦めて先に逃げ、避難する時間も限られていたため船倉に取り残された多くの乗客が脱出できずに死亡。また、折悪しく天候も悪く海も荒れており、船外に脱出した者も多数が死亡し、かろうじていかだに乗って助かった者達は付近の島等に流れ着き、最長10日漂流した者もいた。また、近辺の漁船に救出された者もいたが、結局乗員・乗客合わせて名前が判明しているだけで漏れ1,476名が死亡した(対馬丸記念館発表、氏名判明者のみ)。出港直前になって乗船を取りやめたり、その逆に乗船を決めた人もいたため、正確な乗船者と犠牲者の数は不明である。
また調査が直後には行われず、戦争中であると言う事情から一旦生存してもその後なんらかの事情で死亡した者もいる可能性もあり、本事件での生存者の正確な数字も判明していない(対馬丸記念館では約280人前後との見方を発表している)が、子供の生存者は50数人であろうと見られている。
救助された者の一部は沖縄に返され、軍から箝口令が敷かれたが、子供たちと連絡が取れないことから不審に思った保護者も多く徐々に噂が広まり知られるようになっていった。
戦後、遺族会が組織され、遺族の要望を受けて政府主導による対馬丸の探索が開始。1997年12月12日に七島灘の水深870mの海底に沈んでいた対馬丸の船体が発見されたが、七島灘は漁船の転覆事故が多発する海の難所であり、加えて水深が深すぎる事と船体の著しい老朽化などを理由に引き揚げは断念。これの代替として沖縄県那覇市若狭に対馬丸記念館が開館された。
また、ボーフィン号の乗組員と対馬丸の生存者が2004年に対面しており、その時にボーフィン号の乗組員側は子供が乗船していたことを知らなかったと語っている。
太平洋戦争中に南西諸島付近の海域で撃沈された輸送船は兵員輸送や定期客船航路も含めて数多い。ただ、政府や沖縄県が主導した疎開(民間人が独自に行ったものは含まない)では撃沈されたのは対馬丸のみである。
当時の沖縄県知事・泉守紀は政府が指示する沖縄県民疎開計画にはかねてから批判的であった。懸念の一つが渡海の危険性であり、対馬丸撃沈として実現してしまったことになる。
作品化
アニメ
- 対馬丸 さようなら沖縄
大城立裕原作。1982年にシネマワークにより制作。但し登場人物の設定は実在の証言を元にしたフィクションであり、一部原作者が事実関係などを間違えていた部分が訂正されず映像化されている(対馬丸の行き先が鹿児島になっている。正しくは前述の長崎。対馬丸の塗装が戦時警戒色となっていないなど)ため注意。
キャラクター
- 具志堅清(CV:田中真弓)
- 比嘉健治(CV:丸山裕子)
- 阿波根勇(CV:安達忍)
- 新城陽子(CV:小林優子)
- 宮里宗信先生(CV:安原義人)
- 糸数弘子先生(CV:酒井ゆきえ)
- 具志堅英俊(CV:熊倉一雄)
- 具志堅マサ(CV:牧野和子)
- 阿波根ミツ(CV:瀬能礼子)
- 新城タケ(CV:沼波輝枝)
- 新城昭男(CV:伊沢弘)
- 大村少尉(CV:村越伊知郎)
- 炊事係(CV:阪脩)
- 船長(CV:二見忠男)
- 軍医(CV:池水通洋)
- 屋良徳正校長(CV:槐柳二)
- 市長(CV:納谷悟朗)
関連タグ
徴用船 太平洋戦争 海難事故 貨物船 日本郵船 みんなのトラウマ
みのもんた - 偶然であるが対馬丸撃沈日に誕生。