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概要
完成当時、世界最大である16.1インチ(41センチ)主砲と26.5ノットの速力を持つ高速戦艦であった。
熾烈を極めた大艦巨砲主義による建艦競争のピークを体現する存在であり、ワシントン海軍軍縮条約による一定の歯止めを与えるきっかけとなった。完成後は陸奥とともに連合艦隊旗艦を交互に務め、日本海軍を代表する戦艦として、国民から親しまれた。太平洋戦争中は主力艦として温存され、中破状態ながら終戦まで稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦である。
艦歴
1917年8月28日起工、1919年11月9日進水、1921年10月24日就役。
ワシントン海軍軍縮条約において16インチ(40.6cm)主砲艦の建造が制限されたため、姉妹艦の「陸奥」、イギリス海軍のネルソン級2隻、アメリカ海軍のコロラド級3隻とともに「ビッグ7」と呼ばれた。
建造当初は煙突の排煙処理が問題となり、設計者の平賀譲造船少将は第一煙突にカバーを付けたが効果はなく、藤本喜久雄造艦大佐のアイデアを取り入れて屈曲煙突を採用。平賀は藤本に無断でこの改装を実施したため両者の確執のもとになったというが、ともあれ、屈曲煙突は長門型の特徴となり、この姿が当時の国民に親しまれた。
1934年の大規模改装で煙突が太い一本の物に替わった他、艦橋および後部指揮所の形状も大きく変化した。主砲は加賀型戦艦のものに換装され、装甲も大幅に強化され、水中防護力の強化および浮力を補うため両舷にバルジを設け艦尾も延長し、全体に重厚な外観となった。特に水中防御はバルジを含め約9mの幅となっており、改装後の長門型の水中防御力は、大和型を含む新戦艦をも上回る、非常に強力なものであったと考えられている。
また機関は石炭と重油の混焼から重油専焼となり、大型化したバルジに設置された燃料タンクとともに、航続距離が大幅に増加した。なお当初は改装時に機関換装を行い、速力を29.3ノットに向上させるとともに開いたスペースに水上機を搭載する予定だったが見送られ、改装は防御構造の強化にふりむけられた。
太平洋戦争
太平洋戦争開戦時、姉妹艦の「陸奥」と共に第一戦隊を形成した。
ミッドウェー海戦では第一戦隊所属として出撃したが、戦闘の機会はなかった。その後は後方での待機が続く。1943年6月8日、姉妹艦陸奥が柱島泊地に停泊中、長門の直近で爆沈。長門乗組員は生存者の救助、遺体の収容にあたった。8月、長門は大和、扶桑とともにトラック泊地に進出。翌1944年2月にはスマトラ島北部のリンガ泊地に進出、ここを基地として訓練に勤しんだ。
1944年6月19日のマリアナ沖海戦は日本海軍の惨敗で終わったが、長門は空襲を受けるが損害は軽微であった。この海戦で、長門は損傷し航行不能となった空母飛鷹の曳航に失敗し、飛鷹は沈没した。
続く10月のレイテ沖海戦では、24日のシブヤン海での対空戦闘で米軍の艦爆から8発の爆弾を受け、52名が戦死する被害を受けたが、翌25日、サマール沖海戦では米護衛空母群に主砲と副砲の砲撃を行った。
11月25日、長門は神奈川県横須賀港に帰投、レイテ沖海戦での損傷箇所の修理と対空兵装の強化が行われるが、その後は戦艦を動かせるだけの重油が枯渇していったために、外洋に出ることはなくなり、艦上に石炭焚きのボイラーを設置して最低限必要な電力を賄う有り様となった。1945年2月に沿岸防御の任を受け、6月1日には特殊警備艦(いわゆる“浮き砲台”)に艦種変更、副砲及び、対空兵装を陸上げし、マストや煙突も撤去され、空襲擬装用に緑系の迷彩塗装が塗られた。
4月に内地に残っていた重油をかき集めて出撃した大和が海上特攻で沈没してしまうと、いよいよ重油の不足が深刻化し、駆逐艦なども樹木等を使って擬装の上繋留され、横須賀において中型以上の艦船で稼働していたのは石炭焚きで動ける特務艦宗谷など少数になっていた。横須賀軍港の艦船で動けるものは非常に危険な「特攻輸送」任務に駆り出され、潜水艦や機雷の餌食となり、次々と沈んでいくことになる。同時期、海軍省は鳳翔、利根などの残存艦艇とともに長門をソ連に回航し、航空機・物資・燃料と交換する計画を立てていたが、ソ連参戦により実現しなかった。
7月18日に横須賀は米艦載機の爆撃を受け、長門は艦橋に爆弾が直撃し、艦長の大塚幹少将以下、艦橋内にいた要員が全員戦死してしまった。またこのとき駆逐艦八重桜(建造中止し長門の横に係留中)、潜水艦伊372、練習特務艦春日および富士が沈没・着底している。
終戦・戦艦長門の最後
終戦後、長門は武装解除ののちアメリカ軍に接収され、翌年、原爆実験「クロスロード作戦」に標的艦として参加するためビキニ環礁へ移動する。
7月1日の第一実験(空中爆発)では無傷だったが、7月25日の第二実験(水中爆発)で損傷し、4日後に沈没した。これに際し上下が反転し、船底を上に向けた状況で着底。艦橋は折れてしまい、船体の傍らにその身を横たえた。
現在、沈没した長門はマーシャル諸島の観光資源となっている。
諸元
新造時
全長 | 215.8m |
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全幅 | 29m |
基準排水量 | 32759t |
公試排水量 | 33759t |
武装 |
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装甲 |
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速力 | 26.5ノット |
乗員 | 1333名 |
最終状態
全長 | 224.9m |
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全幅 | 34.6m |
基準排水量 | 39130t |
公試排水量 | 43580t |
武装 |
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航空兵装 |
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装甲 |
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速力 | 24.7ノット |
乗員 | 1396名 |
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余談
TV番組「開運!なんでも鑑定団」に本物の長門の軍艦旗が出品され、番組に出演していた石坂浩二氏が購入し、大和ミュージアムに寄贈した。 同番組には長門の艦内時計が出品されたこともある。
終戦後、大洋漁業(マルハ)が捕鯨を再開するため母艦として第二復員省へ軍艦の借用を依頼したところ、その候補リストに掲載されていた。しかし、戦艦が捕鯨母船の任務に適するはずもなく、実際には第一号型輸送艦を借用している。
関連イラスト
創作において
長門有希とのコラボ。
核実験絡みで放射能怪獣ゴジラとのコラボ。
酒匂、プリンツ・オイゲン、アーカンソー、サラトガなど、クロスロード作戦標的艦絡みのコラボも見られる。
最後に敵国の新兵器の標的にされて没した、という悲劇から、アニメ『サイボーグ009』第16話では、旧日本軍の生き残りの超能力者・タイラ博士が米英に仕向けた「最強兵器」として浮上させる形で登場した。ビキニ水爆の放射能を全て吸収した『太平洋の亡霊』は、原爆をも物ともせずに、23年前の憎悪を載せて海を渡るが…。
ギルモア博士「戦って沈まず、国敗れて敵の残忍な兵器の実験材料にされ沈められてしまった。長門に武人の心あらば、どんなにか口惜しかったことだろう…!!」
小説・漫画では、戦後の子供たちに人気のあった(そして、太平洋戦争時の日本艦として唯一現存する)特務艦宗谷との絡みが描かれることがある。長門と宗谷は艦種も任務の性格も全く異なるが、「終戦後の横須賀で、長門が後事を宗谷に託した」という描き方がなされる。宗谷より大きな艦は全て他国に引き渡されるか解体され、宗谷は戦後国内に残った最大の海軍所属艦となり、戦後の所属組織である海上保安庁においても最大の船であったため、1978年の退役時まで保安庁の巡視船を代表する旗艦的な地位にあった。海上保安庁は海軍の後継組織の一つであるので、ある意味では宗谷は長門の「後継船」であったと言えるだろう。
なおこの「祖国を灼いた火に耐えた」というのは粋以上に重要な意味を持つ。
この実験には長門以外にも複数の軍艦が参加していたが、駆逐艦や軽巡は沈んだとは言えその殆どが核の炎に耐えていた。
「たかが戦艦」ですら「二発食らってなおしばらく浮いていた」ということは「海戦において核は万能の最強兵器ではない」というこの上ない実証結果となる。
陸戦では無類の強さだとしても陸続きの国に撃ち込んでは自分達が使えなくなる、その心配がない島国にしても(直接投下しなければならない当時としては)本土まで飛行している時点でほぼ勝っている様なものでオーバーキル、海戦では費用対効果が悪過ぎて、核一発の代わりに同じ値段で魚雷を量産した方が余程効果的かつ安上がりとなる。
効かないというのは核兵器反対という一億の声よりも強い影響を持つ。
歩兵用ロケットランチャーすら核兵器化しようとしていた世界においてこれは一種のブレーキとして作用し、大きく出足を挫いたのである。