概要
大日本帝国の軍隊は、1890年(明治23年)11月の大日本帝国憲法施行以来、最高司令官たる天皇の元に軍の運営・管理(軍政)と作戦行動(軍令)とを司る業務は分化され、軍政機関と軍令機関は平等な立場に置かれていた。大日本帝国海軍において、海軍は海軍軍令部(後に「軍令部」)が軍令、そして海軍省が軍政を担当していた。
1945年(昭和20年)8月15日、日本はアメリカ・イギリス・ソ・中華民国によるポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦に敗北。これにより日本軍は武装解除され、軍令部は同年10月15日に廃止。海軍省は同年12月1日に「第二復員省」へと改組された。第二復員大臣は内閣総理大臣が兼任した。
仕事は文字どおり外地で終戦を迎えた兵士や現地日本人の内地への復員、B-29爆撃機等より各地の港に投下された機雷の処理、その他の残務処理が主な仕事であった。旧来の4鎮守府2警備府が「地方復員局」として復員と掃海の実務にあたった。また大臣官房には臨時調査部(後に史実調査部)と資料整理部が置かれ、前者は極東国際軍事裁判対策を担当。後者では旧軍令部第一部作戦課出身のスタッフ有志が本来の業務の合間を縫って海軍再建の研究を行っていた。この研究が後の海上自衛隊につながる。
1946年6月15日に第一復員省(旧陸軍省)と統合され、内閣総理大臣直轄機関「復員庁」の第二復員局となり、早くも翌年1947年10月15日には復員業務を旧総理府に(1948年1月1日に旧厚生省に再移管)、掃海業務を旧運輸省(後に外局の海上保安庁として分離)にそれぞれ移管し廃止された。
復員に用いられた艦船
日本陸海軍は東南アジア・南洋地域にまで勢力を広げていたため、各地の復員に際しては主に大量輸送ができる大型船によって行われた。
艦艇や徴用船のうち、復員輸送に耐えうると判断された艦船が特別輸送艦に指定され復員に使用された。
よって国内にあるものの、大きく破壊されていた戦艦榛名や戦艦日向、重巡青葉や利根などは輸送力があったものの運用されなかった。また駆逐艦冬月は特別輸送艦に指定されたものの内地で掃海部隊の支援任務に就いたため復員輸送には従事していない。
また、これらの艦船は連合国軍による武装解除の上で運用されたので、非武装であった。
使用された主な旧軍籍の艦艇及び特務艦艇は以下のとおりである。
※宗谷は復員輸送終了後海上保安庁に移籍し、灯台補給船・南極観測船・巡視船として活躍。現在も東京都の船の博物館で保存されている。