説明
秋月型駆逐艦の10番艦。艦名は宵の月、夕方の月から来ている。浦賀船渠で1943年8月25日に起工され、1944年9月25日に進水。1945年1月31日に竣工し、呉鎮守府籍となった。当初は三菱長崎造船所で建造される予定であったが、線表改訂により浦賀での建造に変更された。秋月型駆逐艦のうち、浦賀船渠で建造された唯一の艦である。
2月16日 かねて病のため交代を予定されていた初代艦長中尾中佐に代わって、二代目艦長荒木政臣中佐が着任した。艦長室での事務引き継ぎ中に空襲警報が鳴り、 横須賀で待機中に硫黄島の戦いの援護で関東地方に空襲を仕掛けてきた第58任務部隊の艦載機と交戦した。 敵機がかなりの低空だったため、四十九門の機銃による対空砲戦を行った。 約一時間ほどの対空戦闘で撃墜グラマンF6F2機と報告した。戦闘慨報の決裁を新艦長が行い、旧艦長は退艦した。 駆逐艦「蔦」とともに横須賀を出港、敵潜水艦を警戒しながら本州南岸を接岸航行し、 伊予灘屋代島(周防大島)の安下庄泊地に仮泊した。本艦は第十一水雷戦隊に所属していたが、数々の不運から、第四十一駆逐隊に編入される。5月25日に第四十一駆逐隊は夏月が編入され4隻そろうが、損傷している涼月、冬月は行動不能であった。7月の際、呉市街に夜間空襲、B-29による焼夷弾爆撃が行われたものの目標を視認できず対空射撃は実施しなかった。7月24日に呉軍港空襲で被弾損傷。
8月2日、本土決戦に備えて兵力を温存するため、曳航されて東能美島南端の秀地の窪入江島岸に錨泊。藁縄の網で全艦を覆い、青松葉で擬装。単装機銃を陸揚げし、丘に機銃座を作り潜伏したが、8月6日に広島のあの光を目撃した。その後終戦を迎えた。
戦後
復員輸送に従事した。1947年戦時賠償艦として雪風(駆逐艦)と共に中華民国に引き渡され、中華民国艦「汾陽」と改名となるが、実質運用はされていない。なお、秋月型の10センチ高角砲として書籍等に写真が載っているのは本艦の物だと言われていたが、後の研究で、この写真は引き渡された雪風(丹陽)に搭載替えされた時点のものであることが判明した。
国共内戦中の1949年2月に青島を出港して基隆に回航され、10月1日に練習艦隊に編入されて係留練習艦となった。艦橋の窓は全てふさがれ、再生のために浦賀船渠から技師を招いて修理も行われたが、修理することなく1963年に除籍、解体された。