大日本帝国憲法
だいにっぽんていこくけんぽう
明治元年の五箇条の御誓文によって、日本国では公議公論によって決定された国民の意思が天皇の裁可をうけることで国家意思となるという大原則が示された。
この後、この大原則と明治維新後の新たな状況を受け1875年4月、「漸次立憲政体樹立の詔」が発せられ、1876年9月には元老院で憲法の起草作業が開始された。
それに前後して、自由民権運動も盛んになったため、岩倉具視は井上毅の起草による憲法綱領を太政大臣三条実美に提出。この綱領によって、五箇条の御誓文以来の欽定方式が確認されると共に、後の帝国憲法の骨子が固まった。
そこで、より具体的な憲法条文を起草するため、それに先立って伊藤博文が欧洲に派遣された。
参考になったのは後述のベルギーとドイツ(プロイセン)の憲法であり、イギリスは成文憲法がなかったため、フランスとアメリカ合衆国は共和制で日本の政体とは異なるため参考とはならなかった。
尤も、ベルギー憲法は当時のイギリスの制度を整理して成文憲法化した部分が殆どで、第61条の行政の違法行為を国民が起訴する行政裁判所制度はフランスの制度をベースとしているので、此等の国の制度の影響は間接的にかなり受けている。
1882年に憲法調査のためヨーロッパへ渡った彼は、ベルリン大学のハインリッヒ・ルドルフ・へルマン・フリードリヒ・フォン・グナイストやウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタインなどから憲法の概要等を学び、彼らに多大な影響を受けた。
帰国した伊藤は、制定すべき憲法の前提をなす華族制度や内閣制度を創設した後、西洋法にも明るい井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎らの協力を得て憲法を起草、草案を作成した。
この草案は枢密院で審議された後、1889年2月11日に制定・発布された。
憲法第一条の『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』は、幕末の戦乱を経て既に王政復古の時点で定まっていた「天皇を中心とした国」という原則を、明治初年以降の政治経験に照らして、憲法の条文として表現したものである。
また伊藤は枢密院において、第四条の『天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法に依リ之ヲ行フ』から第十六条までの、天皇の大権に関する条項について「皇室を憲法政治の基軸とする」と発言し、憲法運用の基軸としての天皇の権力を出来るだけ制限しないように努めた理由を述べている。ただ、この部分についても文言を「統治ス」では絶対君主制の色が強すぎるとして、古代の天皇の諡号などに使われていてもっと意味の広い「治(シラ)ス」するかでかなり論争があった。
基本的には立憲君主制国であるベルギー憲法をベースに、プロイセンやスウェーデン等の他の立憲君主国の憲法の良い部分、日本人の伝統に合致しそうな部分を組み合わせた「良い処取り」の想定で作られている。
天皇制の統治権に関しても
・天皇は憲法と法律に則って統治権を総攬する(第4、9条)
・法律は必ず議会の賛同を要し、勅令も議会の事後承諾が得られなかったら失効宣言を出す(第5、8、37条)
・天皇の勅令や命令には担当国務大臣の副署(=賛同)が必要で、該当大臣が輔弼責任を負う(第55条)
・議会には上奏権が確保されている(≒弾劾上奏と言う形で国務大臣の弾劾が出来る)(第49条)
・天皇は非常時には大権を発動出来るが、非常時の条件は国会での承認を受けた法律に則る(第14、33条)
・憲法の改正をする場合には、天皇が国会に改憲案の審議請求を行い、両議院の2/3以上の出席と2/3以上の合意で改正が出来る(第73条)
・予算は帝国議会の承認を必要とし、国会が即座に招集出来ない状況で勅令による臨時予算を組んだ場合も議会で否決されたら無効化宣言を出さなければならない(第64、70条)
・当年の予算案が可決しなかった場合は、前年度の予算決議をそのまま流用する(第71条)
・宮廷費の増額には国会での審議と承認が必要である(第66条)
等、独裁体制とは程遠い物だった。
その為、米大統領のハーバート・クラーク・フーバーは回想録で大日本帝国を「事実上の議会制民主主義国家」と断言している。
ただし、「実績のある憲法からの良い処取り」と言うコンセプト故に、「其れまではある程度上手く行っていた実績が有る」反面、19世紀末~20世紀初頭の憲法としてはやや旧弊な部分も多い。
帝国憲法の特徴は「天皇主権」を原理とする外見的立憲制であり、発布の1889年時点で既存のベルギー憲法をベースとしていたが故に、当時の欧米各国と比較して周回遅れの産物であった。
また後述の統帥権問題により軍部を止めることができなくなり、最終的に国自体を滅ぼしてしまった。自ら帝国憲法を作り、明治以降の体制に君臨していた明治維新の元勲達が存命の時は統帥権問題など起きるはずもなかったが(事実上、軍部の頂点も彼等が占めていたため)、彼等が死に絶えるや、存命中に見過ごされていた、この致命的欠陥が露呈し、それからそう時間をおかずして大日本帝国は比較的短命のうちに瓦解することになってしまった。
人権規定
この憲法では言論の自由・結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が保証されているが「人権は国家から与えられる恩恵である」と定義され言論の自由など自由権への法律による制限が容易に可能であった。
権利に対して法による制限が容易だったため、不敬罪や出版法や新聞紙条例、そして後の治安維持法によって政府に対する批判は弾圧・粛清の対象となり言論弾圧が行われた。
だが・・・「国の秩序と国民の安全を守る為に国会で承認された法律に則った手順で最低限の制限を掛けている」状況なだけまだマシだった。
当時はロシア革命直後でロシアからの亡命者が共産党の危険を喧伝していた時代だったので、世界的に治安維持やテロ防止に緊張せざるを得ない世相も有った。
状況を悪化させたのは1934年の「足利尊氏事件」だった。
当時の斎藤実内閣で商工大臣を務めていた中島久万吉が1921年に文芸誌に寄稿した足利尊氏と室町時代の再評価を考えるエッセイが無断転載され、衆議院で攻撃されたのだ。
当時の首相・斎藤実は「中島に問題が有るとすれば、著作権者としての管理不行き届きのみ。何百年前の人間や時代を論評しても其れは個人の言論の自由で法律違反を犯している訳でも無いだろう。」と衆議院での陳謝に留めた。
しかし、斎藤内閣に不満を持つ右派議員達は貴族院で問題を蒸し返してマスコミに扇動工作を掛けると同時に、言論の自由を重視して「著作物管理不行き届きの陳謝だけで十分」と譲らない斎藤首相と全面対決。
結局、中島商工大臣は失脚し、斎藤首相に至っては首相退任後の翌々年の二・二六件で惨殺されてしまった。(因みに斎藤前首相が殺された時に、人前で怒りを見せる事が殆ど無かったとされている昭和天皇が激怒された事は良く知られている。)
何百年前に死んだ人物に対する歴史論議など、学問や言論の自由の対象で法律的な規制などされていなかったが、「天皇の信頼が極めて厚く、右派議員やマスコミの圧力に屈しない首相」を引きずり降ろす為に、マスコミが率先して言論の自由を潰してしまったのである。
行政府の非統一性
帝国憲法には内閣や総理大臣に関する規定が存在せず、「首相」や「内閣」に憲法上の規程は無く、天皇による大命降下によって組閣され、公選議会による首班指名も存在しなかった。
一応、第76条で「既存の法律はこの憲法に矛盾しないなら有効とする」と言う条文があり、既に内閣制度は内閣官制(1889年)と言う勅令で規定されており、1907年に天皇の勅令に担当国務大臣と共に内閣総理大臣の連署が必要な様に強化されていたが、内閣総理大臣は形式上はあくまでほぼ同格の国務大臣の第一席と言う立ち位置であった。
現行の日本国憲法では首相に他の国務大臣の任免権が与えられているが、帝国憲法ではそれがなかったため、満場一致が大原則の内閣で不一致や議会からの弾劾上奏が起こると、首相は内閣総辞職する他なかった。そのため首相は制度によらず人脈やカリスマという非常に曖昧で不安定なものに依拠してリーダーシップを発揮しなければならなかった。
藩閥政治時代には内閣と陸海軍の間には元勲の存在もあり有機的連係が成り立っていたものの、ソフトに頼りきったこの体制は共に滅びる運命にあった。
統帥権の独立
11条において、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定されており、陸海軍の統帥は参謀総長(後に軍令部総長も)よる輔弼の下、政府から独立して天皇に直属していた。
政府による統制を否定するこの制度は本憲法下における天皇主権を象徴するものである。
そもそも統帥権とは、陸海軍の予算、人事、管理などを司る軍政権と編制、作戦立案、指揮などを司る軍令権に分けられ、前者は軍部大臣に、後者は、陸軍は参謀総長、海軍は軍令部長(昭和に入ってから軍令部総長に改名)に実質委任されており、統帥権=軍令権の意味とされてきた。(軍政の長である軍部大臣が内閣の一員である以上、軍政に関しては天皇大権ではなく内閣に委任された権限となる)
しかし、1930年のロンドン海軍軍縮会議に際して海軍軍令部は軍令部の承認なき調印は統帥権を侵すとして非難。
そこへ野党の政友会も同調し浜口雄幸内閣を攻撃した統帥権干犯問題が発生。
内閣は押し切って調印したが同年11月14日右翼の佐郷屋留雄による浜口首相狙撃事件に発展。
制度的欠陥が軍部の台頭を招くきっかけとなった。
司法権の独立の不徹底
司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これにより司法権は独立することとなっていたが実際は、裁判官は行政官庁である司法省の管轄下にあり、ひいては内閣の影響を受けることになった。
また、パワーバランスは検察に大きく傾いており、独立を謳われているとはいえ、行政に対して風下に立つことが多かった。
これが、司法と行政の必要以上の対立を呼び、同時に、権力が大きくなりすぎるとして統帥権の独立とともに、総理大臣に他の国務大臣の任免権を付与できないことの理由にもなった。
また、行政による不法行為を国民が訴える際には特別裁判所である行政裁判所に告訴する必要が有った点も司法権の独立の不徹底と言われる場合が有る。
この制度は前述のようにフランスの制度から導入したものであり、行政の上層部が部下の失態の取り締まりをするのに司法が助っ人をすると言う建前である。
軍法会議同様に普通の刑法や民法のみならず、行政法に詳しい人間が裁判を行わないといけないと言う必要性が有ったが故に出来た制度だった。
この行政裁判所は東京にのみあって一審制で行政側が主体になって進める裁判・・・なのだが、意外な事に国民側の勝訴率は3割程度と、戦後の司法裁判所で処理する様になってからの1割強と比べて高い。
国民側が余程の勝ち目が有りそうな状況でしか告訴しなかったと同時に、行政裁判所の裁判官に選ばれる人間も身内の不祥事や失態に厳しい人間が人選されていたと言う事である。
不磨の大典
改正手続きは第73条に規定されており、制度上は担当国務大臣の副署を得た改憲案を天皇が議会に審議請求し、議員の2/3の出席と出席議員の2/3の賛同で改憲は可能だった。
しかし、憲法発布時の勅語などでは、帝国憲法は『不磨の大典』、すなわち完璧かつ不朽ものとされた。加えて欽定憲法であることもあり、言論の自由が制限された臣民は改正を口に出すのも問題視され、航空省と空軍の独立問題の時の様に実際に改憲を提案しても封殺されてしまった。
逆に、天皇は立憲君主制の君主として振る舞い、適切な権利行使も怠った。
そのため時代に合わなくなった部分が生じたこと、問題があることが承知されながら、誰も改正を発議できなくなってしまった。
そして軍部の台頭、未曾有の経済危機、格差拡大による社会不満の増大など幾多の危機を経て憲法制定以来の微妙な政治的均衡が崩れると、上記の問題の弊害が次々と噴出するのであった。
天皇大権
大日本帝国憲法下の規定では、天皇は宣戦布告、条約の締結などを議会の承認を得ずに行うことが可能(第13条)など、大きな権限が与えられており、その結果には責任は問われなかった( いわゆる君主無答責 )。
ただし、前述の様に天皇の政治行為全般には担当国務大臣の副署が必要なので、担当国務大臣と其れを纏める内閣の同意が必須であり、天皇個人で使用出来るものでは無かった。結果責任は輔弼責任と言う形で担当国務大臣が問われる事になる。
実際には歴代天皇( 明治天皇、大正天皇および昭和天皇)は常に内閣の助言のもとに大権を行使した。立憲君主政が確立した大正・昭和期に天皇個人の判断で天皇大権が発動されたのは内閣が機能不全に陥った非常時のみで、二・二六事件の戒厳令とポツダム宣言受諾の決定の二例のみである。
ただし昭和天皇の名で太平洋戦争開戦を宣言したことは、戦後に天皇の戦争責任問題を追及される根拠ともなった。
同様の事例としては第一次世界大戦ではドイツでは革命が起き、皇帝ヴィルヘルム2世が戦争責任を問われ、追放された事例が存在するが、政治取引によって結局東京裁判では天皇の戦争責任は問われなかった。