生い立ち
安政5年10月27日~昭和11年2月26日。岩手県に生まれる。出生時の名前は「富五郎」であった。
海軍時代
海軍兵学寮( この組織はのちに海軍兵学校となる )六期卒。この時名前を「實」に改める。その後アメリカ駐在武官や海軍参謀本部員、防護巡洋艦艦長、イギリスで作られた富士型の回送委員などになる。
明治31年以後、海軍次官・軍務局長などを歴任し、明治39年から大正3年まで海軍大臣となり、その後海軍大将となったものの、大正3年に発生したシーメンス事件の責任を取る形で予備役編入され当時は軍部大臣現役武官制は廃止されていたが、大臣の職も辞した。
再度海軍
大正8年に現役復帰し、三・一運動が発生し前任者が退職した朝鮮総督の任に昭和2年末まで就いた。辞職後の昭和2年には戦艦と空母の保有割合を決めたワシントン海軍軍縮条約の後を受け巡洋艦や潜水艦などの補助艦の保有割合を決定するためのジュネーブ海軍軍縮会議全権大使を受けたり、枢密院の顧問官となったりしたのち、昭和4年に再度の朝鮮総督となった。
総理大臣
昭和7年の五・一五事件後、本来は別の人物が内閣総理大臣となる予定であったが、陸軍の若手将校が反対し、きな臭くなったため西園寺公望の命を受け、当時の政党である立憲政友会と立憲民政党の連立政権である挙国一致内閣を組織することとなった。ところが国会や軍部などには不満が多くあり、昭和9年には鈴木商店の倒産により台湾の発券銀行であった台湾銀行に担保にされた帝国人絹の株式をめぐるスキャンダル、帝人事件が発生し、内閣総辞職に追い込まれる。
総理大臣以後
昭和10年末に内大臣に就任して政務に携わったが、翌年二・二六事件で〈君側の奸〉として殺害された。
そのほか
- 海軍兵学寮の同期としては、海軍内の教育に尽力し海大の父と呼ばれる坂本俊篤および呉海軍工廠の立ち上げに尽力し軍艦の国産化の道を開いた山内万寿治がおり、「海軍の三秀才」と呼ばれたとされる。
- シーメンス事件はシーメンスの横浜支配人が親族のコネを利用し海軍の入札情報を事前入手し一手に引き受けており、海軍将校に謝礼を払っていた。この情報をシーメンス社員がつかみ外部に売却、本社はもみ消しを図ろうとするも失敗した事件であり、その後戦艦金剛に関する汚職も発覚、結果として山本権兵衛首相の総辞職及び海軍の影響力の低下となった件である。
- 朝鮮統治においてはそれまでの反省から儒教的教養が統治に多く利用され、従来の〈武断政治〉に代わる〈文治政治〉の下での朝鮮統治体制の強化を進め、反日感情が強い近代的教養を受けた儒生の親日化を重視し、東洋道徳の発揮という名目で組織された「大東斯文会」「儒道振興会」などの親日団体で融和を計りと意思の疎通を全うすることを是とした。
- ジュネーブ海軍軍縮会議は結果としてアメリカ合衆国とイギリスの考えの相違により決裂している
- 内閣総理大臣時代においては、留任させた大蔵大臣高橋是清の手腕もあり安定していたとされる
- また、昭和天皇の信任を得ていたとされる