小磯国昭
こいそくにあき
この人物は漢字の表記にゆれが存在し、小磯國昭と表記されることがある。
大日本帝国陸軍の軍人であり、陸軍次官(陸軍大臣に告ぐ位置である)関東軍の参謀長(指揮命令系統上の指揮官や責任者を補佐するため、各種実務を計画し、その指導監督をする立ち位置のトップ)、朝鮮軍(朝鮮半島に存在する軍隊を統括する軍組織)司令官などを歴任した。
軍隊を予備役となった後は拓務大臣(いわゆる外地と言われた日本の植民地や権益を持つ地域の統治事務・監督や移民を担当する部署の大臣)、朝鮮総督(朝鮮を統治するための現地組織である朝鮮総督府のトップ)などを歴任、昭和19年から昭和20年にかけて内閣総理大臣となる。
中学(この時代は旧制度によるものであり、高等学校に分類される)卒業時進路を決めるに当たり「強ひて挙げれば幼少の時分から兵隊が好きであつたし、幸に身体も強健軽捷である。学科は特に秀でたものも持たないが、人の間に伍して行く丈の才能は授かつてゐる」という理由により陸軍士官候補生となる。
この自己分析は正確であり、決して優等な成績を修めることも目立った手柄を立てることもなかった(陸軍大学校内の成績は同期55人中33番であったとされ、この成績でここまで出生した人物はいないとされる)ものの大過もなく、要領よくそれなりの成果を収めるという術を持っていたと思われ、陸軍内で順当に出世していった。
ただ当時は軍縮時代であり、小磯が連隊長を務めた連隊もそのあおりで廃隊の憂き目に遭っている。
三月事件
昭和6年、小磯は宇垣一成(陸軍大将、陸軍大臣、朝鮮総督。軍人としてよりも政治家として優秀であると思われ後に政治家となるが、陸軍大臣の際軍縮、実際には装備更新を目的としたもの、を行ったことやクーデター未遂の対応により、大臣を出せずそれはならなかった。戦後参議院議員となるがまもなく死亡)陸相の下で整備局長をしていたが、そこへ大川周明(戦前において「アジア主義」を唱えた人物でありA級戦犯にも指定されるが精神障害で免訴、その後コーランの研究などを行っていた)が訪ねてきた。
大川は橋下欣五郎(陸軍大佐、砲兵。トルコ公使館付武官となった際革命思想を持ち、三月事件や十月事件といったクーデター未遂を起こしたり、二・二六事件では勝手に仲介しようとして逆に予備役にされたりした。日中戦争で現役復帰するが、中立国への砲撃を行った件により引退。その後政治家となるが、A級戦犯に指定された。いわゆる「あかん奴」)陸軍中佐らと共に宇垣を担いでクーデターを起こそうとしており、宇垣への取り次ぎを頼んできたのである。
小磯はいったん計画に乗りかけるが結局は実行阻止に回り、宇垣自体もクーデターによらず政権をとる見込みができたため事件は未遂に終わる。
これがいわゆる「三月事件」である。
軍部後半のキャリア
この事件のち軍務局長、陸軍次官へと昇格。
ところが、満洲事変、五・一五事件を経て陸相に「皇道派(大日本帝国陸軍の派閥のひとつであり、北一輝ら国会社会主義者の影響を受け天皇親政の下での国家改造を目指し、外交では反ソビエト連邦であったとされる、ファシスト思想に近いかもしれない)」の代表格の荒木貞夫(陸軍大将、陸軍大臣、文部大臣、男爵。皇道派の重鎮であった。戦後A級戦犯に指定され終身刑)が就任して露骨な派閥人事を始めると、「統制派(派閥のひとつ、当初は暴力革命的手段による国家革新を企図したがのちに列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目的とした、ただし反皇道派をこう称されることがある)」に近いとされた(実際には派閥には近づかなかっただけなのだが)小磯は軍中枢部を追われ、関東軍参謀長として満洲に飛ばされた。
そのまま予備役、すなわち現役引退となるのは確実と見られていたが、荒木陸相の病気辞任を機に皇道派の勢いが弱まったため、広島第五師団長、朝鮮軍司令官となり、陸軍大将まで昇進したのち、昭和12年、宇垣一成による内閣における陸軍大臣の話があったものの、これは組閣自体が流れた。昭和13年予備役となった。
政治家として
予備役となった後は昭和14年に平沼内閣、昭和15年に米内内閣で拓務大臣に就任。拓務省は朝鮮・台湾など外地管理が仕事で、小磯は東南アジア地域の資源開発構想に取り組んだとされる。大東亜戦争開戦翌年の昭和17年には朝鮮総督に就任。
かねてから「内鮮一如」が持論であった小磯は朝鮮半島等の植民地に議席を与えるよう具申を行う(これが実現するのは彼が朝鮮総督を離れた後、内閣総理大臣となった昭和20年であるが、その後日本統治下での選挙が行われず幻となった)。また朝鮮人の義務と権利の拡大を推し進めた。しかしその間にも戦局はどんどん悪化していく。
首相
そして戦争末期の昭和19年、東条英機の後任首相に選ばれて内地に帰還した。
ところが適任者は存在するものの、他の反対でつぶされてしまい「消去法」で選ばれたような状態で、積極的に小磯を適任と推した者は一人もなく、どう見ても小粒かつダーティーなイメージのあり、さらには近代戦の知識が少ないと思われた小磯に不信感を持つ者の方が多かった。
実際、首相は一応小磯であるものの、海軍大将米内光政との連立のようなものというよくわからない変則内閣になった。
また陸軍からもあまり好まれなかったらしく正確な戦況すら知らされなかった。そこで現役復帰して自ら陸相を兼任しようとしたが、陸軍大臣であった杉山元(大日本帝国陸軍の軍人、元帥。陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官のすべてを経験した人物。敗戦後自殺)の反対で阻止された。
また、繆斌(中国国民党の党人政治家であり、中華民国南京国民政府(汪兆銘)にしたがっていた人物、第二次世界大戦後処刑される、一説には和平工作を行ったことへの口封じとも)を仲介に重慶の蒋介石政権との和平を狙い、いったんは陸軍および海軍も了承したものの、重光葵(外交官を経て外務大臣、戦後A級戦犯に指定され禁固7年、その後衆議院議員、外務大臣となる)外相の猛反対(いわく、「非正規の外交ルートによる外交交渉に反対」、「繆斌自体本当に蒋介石に和平を持ちかけるかどうか怪しい」というもの)で中止となった。
この内閣ではインドネシア独立を承認、戦局打開にも意欲を燃やすものの、ナチスには「戦争続行の意思はない」とまで思われてしまい、最後まで指導力は発揮できず、わずか8ヶ月で総辞職となる。
- 母親は美人で、当人も中学の初年級頃は美少年であったらしく、当時の同級生には後に「誰かと思ったよ」と言われたという。
- 大変な美声の持ち主であったとされる。
- 陸軍時代に最も手腕を発揮したのは、軍隊の編成や動員計画、資源確保の立案や運営といった官僚的事務であった。
- 日蓮宗の信徒であったとされる。
- 先見の明もあり、すでに大正時代に将来は制空権の確保が戦いの第一条件になると考え、空軍を陸海軍から独立させるよう提案を行っていたが、戦前の状況においてはその意見は受け容れられなかった。
- 朝鮮総督時代「朝鮮の虎」と呼ばれたが、当人曰く「歴代総督のうち、ご覧のとおり私が一番の醜男だ。この顔がトラに似ているためではないか」ということである。
- 小磯発言は当時日本が占領していたインドネシアに対し「将来の独立認容」をうたった声明である。
- 上記のような実情でもA級戦犯とされ、判決は終身禁固刑であった(ただし、連合国は三月事件を日本の軍国主義化の原点と見ていた節が存在し、同様に終身刑を食らった橋本欣五郎も同様である)。
- 服役中、パール判決書の紙の裏を使って手記を残したが、小磯の記憶力は驚異的であり資料も記録もない獄中で日常の細かいことまで綴り、87万字という膨大なものであった(ただし陸軍の上層部の人間に関しては記憶力があることが普通である)が、手記を書き終えた翌年拘置所内にて食道癌で死去した。