生没年:元治元年6月22日~昭和4年9月29日
長州出身の軍人・政治家。
父は長州藩主の御六尺(駕籠かき)という身分であったが、武術にも優れ藩主にも信頼されたらしい。
明治維新があってから田中は、小学校の先生をやったり、前原一誠による萩の乱に参加したものの幼少だというので許されたりした。長崎に遊学し、陸軍士官学校、陸軍大学校で学んだ。
ロシア留学の後日露戦争では満洲軍参謀として大きな功績をあげた。
緻密な頭脳でありながら人づきあいは軟らかく、組織をまとめるのが得意で特に在郷軍人会を組織し、青年団を組織。大隈重信を籠絡して陸軍後援会長なるものにするなど、軍への支援を草の根レベルで拡大することに抜群の功績を残した。
そして、原敬のもとで陸軍大臣となり、シベリアからの撤収に努めている。
山縣有朋の側近として知られていたが、その死後の大正14年に政友会総裁に就任して世間を驚かせた。「おらが」とうのが口癖であることに象徴されるように庶民性があり、在郷軍人会などを通じて地方にも知己が多い田中は、格好のリーダーだった。
田中内閣
若槻礼次郎内閣の瓦解を受け、昭和天皇は元老西園寺公望と内大臣牧野伸顕に御下問をなされ、「憲政の常道」からしても政権は憲政会から政友会に移るべきであるとして、田中義一を推挙、昭和2年に田中内閣が発足した。
大命が降下すると田中は貴族院研究会からの入閣を断り、山本を中心とする薩派とそれと連携した後藤、伊東の入閣についても取り合わなかったが、党外勢力としては司法大臣に原嘉道という適材を得、内務大臣にも鈴木喜三郎という優秀な閣僚を起用した。
内治
田中内閣は共産主義者を治安維持法違反容疑により一斉検挙する三・一五事件が発生し、その後新聞記事の解禁と同時に、労働党など3団体の結社を禁止する処分を行って、更に田中内閣は治安維持法改正案を提出した。
しかし議会の会期が迫り審議未了で廃案となったため、憲法第8条を根拠として緊急勅令で法案を成立させることに決定した。
新聞では反対論が広がり、政友会内でも反対論が広がったが、現行法に漏れた事柄がある以上、これを補うために緊急勅令を出すのは当然の決定であり、枢密院へ諮詢して可決され、議会でも承認された。
田中内閣でも左傾派の取り締まりは不十分であったものの、共産主義思想等の影響を受けた運動に対する強硬路線は適切であった。
この治安維持法改正緊急勅令問題の間、鈴木内相は民政党の政綱を排撃する見解を示し、その声明が問題視された。実際に趣旨は問題なかったものの、選挙戦略としては時期が適当でなく、結果として政府与党は訂正しないという妥当な決定をしたものの、鈴木に代わって望月圭介逓信大臣を内相に転任させることになってしまった。
財政
高橋是清が大蔵大臣に就任し、思い切った手を打って金融恐慌の危機は二週間ほどで去った。取り付け騒ぎが収まると、高橋蔵相はさっさと辞めているが、金融恐慌を収束したのは田中内閣の大きな功績と言える。
外交
外務大臣には、日銀以来高橋の子分であった井上準之助を起用しようとしたが、合意が得られず、首相が兼任することになった。
そのため、実質的には外務次官の森恪が外交を仕切ることになり、井上は日銀総裁として、金融恐慌への対応に尽力している。
田中内閣以前の憲政会政権では、幣原喜重郎外務大臣の協調外交路線をとっていた。
中華民国に居留する日本人が暴行や略奪を受けてもひたすら穏便な対応をとり続けたので、批判や不満が高まっていた。
田中内閣以前の南京事件で日本領事館が一方的に略奪されて負傷者が出、日本領事館で領事夫人が凌辱されたが、日本は各国領事館を襲撃した蒋介石の北伐軍への反撃に参加せず、その結果、日本人は無抵抗だと甘く見られ、まもなく漢口事件が起きて、日本人居留民や領事館員がまたしても暴行・掠奪・殺害されている。
まったく放置する憲政会と打って変わって、田中は積極的な大陸政策を推し進め、第一次世界大戦で日本が権益を得た中華民国山東省の日本人居留民を保護するため、三次にわたる山東出兵を行っている。
この山東出兵は最も時宜を得たものであり、その他外交についても、不戦条約問題などでは態度を不必要に軟化してしまって不徹底だったものの、田中内閣の大枠の方針に問題はなかった。
しかしその中で、かの満洲某重大事件が発覚する。
満洲某重大事件
昭和3年6月4日、奉天軍閥の指導者張作霖が、満洲へ列車で向かう途中で爆殺された。
この事件は、関東軍の計画により河本大作大佐が実行したというのが一応の定説であるが、コミンテルン 犯行説も囁かれており、何とも言えず断定できない。
そうした曖昧さのため、当時としても報告のスジが通らなかったようで、田中は当初「これは由々しき問題だ」として「責任者を断固処罰する」といっていたが、軍部と政友会がこれに強く反発すると「事実不明」に意見を転じている。
外交上、事件の公表はするべきでなかったが、元老・西園寺公望が事件の責任者を公表することを主張したため、田中は板挟みという結果になった。
懊悩した田中が「関東軍はこの事件に無関係」と昭和天皇に奏上したところ、天皇は烈火のごとくお怒りになられて「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再び聞くことは自分は厭だ」と叱責された。天皇のお怒りに田中は涙を流し恐懼、総辞職した。
田中の辞職は、宮中側近による天皇の政治利用であったが、天皇のご発言はあくまで法的拘束力を持たない「警告権」であった。
その後は表にあまり出ることもなく、辞職から数か月後に持病の狭心症で死去した。田中の死で幕末より勢力を保ち続けた長州藩閥の流れは完全に途絶えることとなる。
自身の発言が死に追いやる結果になってしまったと責任を感じられた昭和天皇は、これ以降の政府の方針に口を挟まなくなったとされる。
田中上奏文
田中はとんでもないビラをまかれている。
昭和2年に東方会議で協議された国策に関し、田中首相が満蒙征服の計画を具体的に述べた、一木喜徳郎宮内大臣に宛てたとされる上奏文である。
これは以下の点より、中国がでっち上げたインチキであることが明らかである。
- 上奏が内大臣でなく宮内大臣に宛てられていること
- 九か国条約に対する打開策の協議に山縣有朋(故人)が参加していること
- 田中義一の欧米訪問に関する記述の誤り