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前原一誠

まえばらいっせい

幕末の長州藩士。明治政府初期の政治家。萩の乱を起こして刑死。維新十傑の一人。
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プロフィール編集

生没:天保5年(1834年)3月20日~明治9年(1976年)12月3日

長州藩出身。名は佐世八十郎→前原彦太郎→前原一誠と変遷。

維新十傑の一人。木戸孝允は家系図では前原の義理の叔父にあたる。

松下村塾入塾前~明治政府下野編集

少年期に落馬事故で片足が不自由になったこともあり、武術を諦め学問や農漁業などに打ち込んでいた。

安政4年(1857年)に吉田松陰主宰の「松下村塾」に入って師事、尊王攘夷運動に加わった。文久2年(1862年)に久坂玄瑞らとともに脱藩、長井雅楽の排斥運動に参加した。

その後、禁門の変にも参戦。功山寺決起以降の

四境戦争(長州征伐)時には干城隊頭取として小倉城攻略に功があった。

この頃までに前原氏を継ぎ前原彦太郎と名乗る。

戊辰戦争でも北越方面の参謀として北越・会津を転戦し軍功を立て、会津藩主・松平容保の助命に奔走し強硬派の木戸孝允らを説得している。

明治維新以降、名乗りを前原一誠としている。

明治政府では越後府の判事や参議を務め、大村益次郎暗殺後は兵部大輔を就任。この頃から国民皆兵制度(徴兵令)などの諸政策を巡り木戸や木戸派の伊藤博文井上馨山縣有朋らとの関係が悪化する。広沢真臣の暗殺後はさらに関係が悪化し、長州の諸隊反乱の処置を巡り完全に決裂、辞職して帰郷した。

萩の乱編集

明治7年(1874年)に江藤新平島義勇が起こした佐賀の乱が呼び水となり秋月の乱神風連の乱など全国で士族の反乱が続発する。前原は弟分の奥平謙輔や玉木正誼(松陰の叔父・玉木文之進の養子、乃木希典の弟)に吉田小太郎(松陰の兄・杉民治の長男で、松陰が独身であったために跡継ぎが空白になっていた松陰の吉田家を継いでいた。)らと語らい萩明倫館や松下村塾の有志たちと共に明治9年(1876年)に殉国隊を率いて挙兵。敗北後捕えられ、12月に首謀者として弁明も許されず弟たちや奥平らと共に斬首。享年43歳。

のちに一誠たち兄弟の父・佐世彦七と玉木文之進は反乱関与を疑われたことや、松下村塾から政府への叛乱を企てた者を輩出したことを恥じて自害している。

ちなみに、西南戦争が勃発するのは前原が処刑されたわずか2ヶ月後のことである。

人物編集

  • 実家の佐世家は尼子晴久毛利元就に仕えた佐世清宗の子孫。継承した前原家は山中鹿介らと共に尼子再興軍に加わった米原綱寛の子孫。ただし佐世家と前原(米原)家は同族である。
  • 師の松陰からは久坂や高杉と比較して才能や識見は劣るが人間性ははるかに勝っており友人宮部鼎蔵のようだと評された。
  • のち東京帝国大学(現・東京大学)総長となった元白虎隊山川健次郎はかつて前原や奥平から受けた恩義を終生忘れなかったという。
  • 山川健次郎の兄・山川浩(または松平容保)から礼として蒲生氏郷以来と言われる鶴ヶ城秘蔵の南蛮屏風一部を贈られるなど奥平謙輔と共に会津人からの評判が良かった。
  • 親交があった元会津藩士・秋月悌次郎からは晩年に奥平ともども西郷隆盛桐野利秋(中村半次郎)・江藤新平島義勇とともに人物は一流だが感情で身を滅ぼしてしまったと評された。
  • 広沢真臣の事件も坂本龍馬同様、謎が多い暗殺事件とされるが、広沢が暗殺された日に帰郷中の前原も襲われたため広沢暗殺について前原は木戸を黒幕と疑っていた。

ドラマでの演者編集


関連項目編集

明治 幕末 政治家 長州長州藩 松下村塾

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