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井上馨

いのうえかおる

井上馨(1835~1915)とは江戸、明治、大正時代に活躍した武士、政治家。
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プロフィール編集

生年:1836年(天保6年)11月28日

没年:1915年(大正4年)9月1日


概要編集

江戸、明治、大正時代に活躍した武士、政治家。


長州藩士の次男として生まれる。始め志道(しじ)聞多と名乗る。尊攘運動を行い高杉晋作らと品川公使館焼き討ちを決行。


1863年(文久3年)、伊藤博文ら4人の長州藩士とイギリス留学しイギリスの圧倒的な産業の発展を目にし攘夷の無謀さを悟る。イギリス滞在中に下関戦争で4か国艦隊が長州に攻め寄せた知らせを受け戦争を回避すべく、翌1864年(文久4年)、伊藤と帰国。和平を藩主・毛利敬親に訴えるも開国派の井上を狙う保守派の刺客に襲われる。とどめを刺されそうになった際懐中に入れた鏡が刃に当たり難を逃れ、自宅に来ていた医者の治療で一命を取り止める。明治政府では木戸孝允の紹介で大蔵省に入省、外務大臣の前身にあたる外務卿に就任した。第1次伊藤内閣で外務大臣を務めた際不平等条約改正の一環として鹿鳴館を建設する欧化政策をとるも国民の非難を受け失敗。以後、大蔵大臣、農商務大臣、内務大臣など重要閣僚を歴任した。


三井財閥と癒着しており西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され江藤新平から不正を糾弾され。一時的に失脚を余儀なくされた。「征韓論」に敗れた江藤や西郷の下野後に政府に復帰、政界・官界・軍部に隠然たる勢力を保った山県有朋ほどではないが長州藩出身の元老の1人として藩閥政治に重大な発言力を持ちつづけた。

1914(大正3)年8月23日に第一次世界大戦が勃発すると、「今回ノ欧州ノ大禍乱ハ、日本国運ノ発展ニ対スル大正新時代ノ天祐ニシテ、日本国ハ直ニ挙国一致ノ団結ヲ以テ、此天祐ヲ享受セザルベカラズ」と大いに喜んだ。

1915年(大正4年)9月1日、79歳で死去、葬儀は日比谷公園で営まれた。


余談編集

  • 気が短く誰に対してもすぐに怒鳴り散らす性格だったようで、「雷親父」の通称で知られる。官僚時代の部下で後年まで公私ともに親しかった渋沢栄一は、渋沢の側では雷を落とさない井上の「避雷針」と呼ばれた。

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