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概要編集

天保8年(1837年)4月5日、長州藩の足軽である入江嘉伝次・満智(村上与三右衛門の長女)夫妻の長男として生まれる。弟に和作(後の野村靖)、妹に伊藤すみ子(伊藤博文の前妻)がいる。


安政3年(1856年)に父が死去し、家督を継いだ。安政4年(1857年)に弟の和作が吉田松陰松下村塾に入塾するが、九一は家計を支えるべき立場であるため通う暇を作れず、安政5年(1858年)になって遅れて入門した。同年12月に松陰は再投獄されるため、実際に学んだのは1ヶ月程度に過ぎないが、松陰から高く評価され久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。


同年、師である松陰が江戸幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中の間部詮勝暗殺計画を企んだ。この時、高杉・久坂・稔麿らは猛反対したが、九一・和作兄弟だけは賛成し計画に加担。


同年、伏見にて藩主を拉致して朝廷に誘導し、強引に攘夷を宣言させるという奇策「伏見要駕策」を獄中で思いついた松陰は、無謀な策に反対する久坂、高杉ら殆どの門下生に破門状を出し、入江兄弟に実行の指示を出すが、藩に察知されて弟と共に岩倉獄に投獄された。結果松陰は、安政の大獄にて処刑され、また入江家は困窮し、九一は獄中で内職を行って家計を助けた。


松陰の処刑から半年後、兄弟も万延元年(1860年)に釈放され、文久3年(1863年)には稔麿らと共に足軽から士分に取り立てられたが、無給の士分という扱いであり、家計の苦しさに変化はなかった。京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。同年の下関戦争には久坂の率いる光明寺党の一員として参加した。


元治元年(1864年)7月19日、禁門の変では久坂の率いる浪人隊の一員として天王山に布陣し、御所攻撃に参加したが敗れて久坂は松下村塾時代の同志・寺島忠三郎と共に自刃。久坂に藩主世子への伝言を頼まれた九一は何とか脱出しようと図ったが、塀を越えたところで越前兵の槍を顔面に受けて死亡。享年28。


首級は福井藩士が松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後長らく長州藩側に忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した事をきっかけに、明治30年代に碑石が修築された。


明治24年(1891年)に正四位を贈られた。


人物編集

  • 松下村塾の中では歳上である。

  • 「幕末の麒麟児」と言われた、あの高杉を止められる数少ない人物でもあった。

  • 上記の老中・間部の暗殺計画に九一・和作兄弟だけが加担し、その際に松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。

創作編集

実写・ドラマ編集

大河ドラマ花燃ゆ

入江九一(2015)

演:要潤



関連タグ編集

松下村塾 吉田松陰

久坂玄瑞 高杉晋作 吉田稔麿

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