概要
生 没:天文14年8月15日(1545年9月20日) - 天正6年7月17日(1578年8月20日)(異説あり)
別 名:幸盛、甚次郎、亀井甚次郎、鹿之助、鹿之介 他
父 母:山中満幸(実父)、亀井秀綱(養父)、なみ(生母、立原綱重娘)
兄 弟:幸高 他
子 女:幸元(鴻池直文)、幸範 他
山陰地方の戦国武将の一人で、実際の名乗りは山中幸盛(ゆきもり)であるが、本記事においては便宜上、世間に広く知られている「鹿介」の通称を用いるものとする。
「山陰の麒麟児」の異名を取り、尼子家中でも特に智勇・忠義に優れた「尼子三勇士」(「尼子三傑」)の1人にも数えられるなど、類稀なる武勇と知略の持ち主として知られる。
衰退して行く主家への忠義を貫き、その復興を夢見ながらも悲運の最期を遂げた生き様は、後世「山中鹿之助」として講談や教科書などの題材とされ、広く人気を得ることとなった。中でも「三日月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は非常に有名である。もっともこうした逸話から、一部の歴史ファンからは「ドM」という何とも有り難くない扱いをされる事もままある。
またこれも諸説あるものの、容姿端麗な美少年とも伝わっており、その事も人気により拍車をかけている。
出自
生没日については前述の通り異説が存在し、このうち没した年についてはいずれも天正6年である点では一致を見ているものの、7月2日(1578年8月5日、『名将言行録』より)もしくは13日(同年8月16日、『雲陽軍実記』より)とも伝わっており、さらに前者では34歳、後者では39歳とそれぞれ没年齢も相違している。
生年月日については前半生に不明な点が多いため、基本的には没年月日からの逆算となるが、前出の天文14年8月15日については『太閤記』などに見られるもので、これを素直に受け取るならば34歳で没したことになるが、39歳で没したという異説を取る場合、生年は天文9年(1550年)となる。
出生地についても諸説あり、通説では尼子氏の本拠である出雲の月山富田城の麓と伝わるが、『陰徳太平記』によればそれよりさらに西に所在する鰐淵寺(島根県出雲市別所町)であるとされる。さらには尼子氏の勢力圏より遠く離れた、信濃の見上城(長野県南佐久郡南相木村)にも、鹿介が出生したとの言い伝えが残されていたりもする。
生涯
尼子家滅亡前
尼子氏家臣・山中満幸の次男として生まれたとされる。幼名は甚次郎(じんじろう)。
山中氏は尼子氏の庶流とされ、父・満幸も家老として仕えていた事から、鹿介も例に漏れず幼少から尼子氏に仕えた。鹿介が幼い頃に満幸が病没した為に生活は苦しく、そのため賢母と称された母の下、10歳にも満たない頃から合戦に参加し、さらに弓馬や軍法にも親しむ日々を送っていた。16歳の時、主君・尼子義久による山名攻めに従軍、豪傑として名高かった山名氏配下の豪傑・菊池音八を一騎討ちで討ち取る殊勲を上げている。
その後、尼子氏の重臣・亀井秀綱の養子となっていた時期もあったが、やがて実家の山中氏へと戻り、永禄3年(1560年)に病弱だった兄・幸高から家督を譲られた。
鹿介が家督を継いだ当時、中国地方では毛利元就が陶晴賢や大内義長らを滅ぼして大内領を得てからその勢力を着々と広げており、かつては毛利氏を遥かに凌ぐ勢いだった尼子氏でさえも、本国出雲が毛利軍の脅威にさらされる状態にあった。
永禄6年(1563年)にはいよいよ毛利氏による出雲攻めが本格化し、鹿介も尼子軍に従軍して白鹿城の戦いなどで奮戦、名立たる武将の首級を上げて、終には生涯不敗の武将・吉川元春を撤退に追い込んだこともあった。永禄8年(1565年)の秋には、月山富田城攻めに毛利方として参陣していた石見の国人で、武名高かった品川将員(大膳、益田藤兼の配下)と一騎打ちに及び、これを討ち取るなどの活躍も見せた。
しかし、そんな鹿介の奮戦も全体の戦況に大きな影響を及ぼすものではなく、1年半余りにも及ぶ月山富田城での持久戦は主君・義久の毛利氏への降伏という結果に終わり、戦国大名としての尼子氏は一時的に滅亡を迎えることとなる。そこから、鹿介の尼子氏再興の日々が始まるのであった。
尼子氏再興運動(1度目)
浪人の身の上となった鹿介は、その後2年近くに亘り雌伏の時を窺うこととなる。再び彼の名が歴史上に現れたのは永禄11年(1568年)のことで、鹿介は京で僧になっていた尼子勝久(尼子義久のはとこで、かつて新宮党事件で討たれた尼子誠久の遺児に当たる)を還俗させて擁立。さらに諸国に逃散していた尼子氏の遺臣を糾合し、主家再興に向けて動き始める。
そして翌永禄12年(1569年)、元就が北九州支配を狙い豊後の大友宗麟と戦端を開いたのを好機と見た鹿介は、但馬の山名祐豊の助力も借りつつ遂に出雲へ侵攻を開始する。
出雲入りを果たした鹿介ら尼子再興軍は、忠山の砦より檄を発し国内に潜伏していた旧臣らを参集させ、わずか1週間足らずで3000にまで膨れ上がった軍勢はまず新山城を攻略。さらに宍道湖北岸に拠点として末次城を築き、出雲のみならず備後・備中や伯耆などへも勢力を拡大していった。
当時大友氏との戦いに追われていたとはいえ、毛利氏もこの動きに対して全くの無策だった訳ではなく、討伐軍を度々差し向けているものの、尼子再興軍はこれを時に打ち破り、また時には自陣営に引き込むことで、戦局を優位に進めていた。
一方、宗麟は重臣の吉岡宗歓(長増)の献策を容れ、客将であった大内輝弘(大内義隆の従兄弟)を豊後から海路周防を攻撃させ、さらに勝久のみならず備前の浦上宗景とも連携することで、元就を挟み撃ちにした。
このような状況に至り、支配体制の危機を感じた元就は、九州の戦線を放棄し尼子再興軍の鎮圧を優先させることを決断。永禄13年(1570年)に入って間もなく、尼子再興軍が攻略を続けていた月山富田城へと進軍を開始する。これを迎え撃つべく尼子再興軍は布部にて迎撃の構えを見せ、2月には当地にて激戦が繰り広げられるも、最終的に毛利軍が尼子再興軍を破り、落城寸前であった月山富田城を解放するに至る。
この敗戦を機に尼子再興軍の勢力は一時的に衰え、その後元就が重病に倒れたことにより手薄となった隙を突いて再度の反攻に打って出るものの、その勢いもまた一時的なものでしかなく、元亀2年(1571年)8月には再興軍の盟主であった勝久が出雲を追われ、鹿介もまた吉川元春に敗れ、尾高城に幽閉されてしまう。鹿介は謀略を巡らし脱出に成功するも、1度目の再興運動はここに惨憺たる結果に終わった。
尼子氏再興運動(2度目)
一旦隠岐へ逃れた鹿介は、その後但馬にて潜伏生活を送り、先の敗北から1年余り後の元亀4年(1573年)に入って再び尼子氏再興に向けて動き始める。因幡を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を企図していた鹿介は、因幡山名氏の山名豊国と結託し勢力を拡大、わずか半年余り後の天正元年(1573年)8月から9月にかけて、毛利方の武田高信が守る鳥取城を攻略し、これを手中に収めた。
その後鹿介は10日で15城を攻略するなど、瞬く間に因幡東部を勢力下に収めるものの、それから間もなく鳥取城に入っていた豊国が、調略により毛利方へ寝返ったことで、一転その勢力も不安定なものとなってしまった。この予期せぬ劣勢を取り戻すべく、鹿介はその後も軍事行動や反毛利勢力との連携を強化し、柴田勝家を通じて織田信長との繋がりを持ったのもこの時期のことであった。
しかし態勢を立て直し切れないまま、天正3年(1575年)には尼子再興軍を支援してきた山名祐豊も、当時領地を脅かしていた織田氏との対抗や、甥の豊国の勧めもあり毛利輝元と和睦(芸但和睦)を結び、これによって尼子再興軍はさらに苦境に追い込まれることとなる。
京都への道を確保すべく、若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)に拠点を移し抵抗を続けていた鹿介も、毛利軍の東因幡侵攻や周辺の支援勢力の滅亡・衰退により孤立化、翌天正4年(1576年)5月頃に因幡からの撤退を余儀なくされた。2度目の尼子再興活動も、結局は実を結ぶことなく終わったのである。
尼子氏再興運動(3度目)
京都に逃れた鹿介らは信長に謁見。この時、信長からは「良き男」と称され「四十里鹿毛」という駿馬を賜ったとされる。これ以降、鹿介ら尼子再興軍は織田の傘下に入る形で、尼子氏の再興を目指すこととなる。
天正4年には明智光秀に従い丹波攻めへ参加、さらに天正5年(1577年)には織田信忠の下、大和攻めに従軍。松永久秀の籠る信貴山城攻略に当たり二番乗りを果たすなどの功績を上げている。この頃、光秀からはその戦いぶりに対し苦言されたとも言われる。
そして同年10月、羽柴秀吉に播磨攻めの命が下ったことで、尼子再興軍も羽柴軍と共に進軍を開始し、その年の暮れには要衝の上月城を攻略。鹿介と勝久らはそこを拠点とし、隣接する美作の国人に対する調略を開始した。年が明けた天正6年(1578年)1月には宇喜多氏による攻撃を受けるも、鹿介は夜討ちにてこれを打ち破っている。
しかし、またここでも予期せぬ事態が起こる。同年2月、三木城の別所長治が突如信長に叛旗を翻し、これを好機と見た毛利氏も急遽播磨に攻め込み、3万もの大軍で上月城を包囲してしまったのである。秀吉も荒木村重らと共に救援に向かったが、信長から長治の討伐を優先するよう厳命され、結果孤立無援となった上月城は、2カ月余りに亘る籠城戦の末、天正6年7月に毛利軍に降伏した。
悲運の最期
降伏の条件として主君・勝久は切腹を命ぜられた。主君の助命に尽力しながらもそれを果たせなかった鹿介は、勝久との別れの際に万策尽きたことを詫びつつ、「自らも吉川元春と刺し違えて後を追うつもりである」と涙ながらに申し立てたという。
それに対し勝久からは、「わずかな間ながらも尼子の大将として良い夢を見させてもらった」と感謝の言葉を贈られると共に、自らの命と引き換えに部下の命を救えるならば本望であるとして、また元春も智勇に優れた武将ゆえ差し違える機会も巡って来ないだろうとして、「生き延びて別の尼子の庶子の下で尼子再興を目指して欲しい」と諭されたとされる。
降伏の後、鹿介は叔父・立原久綱と共に生け捕りとなり、輝元が在陣していた備中松山城へと護送されることとなる。しかしその途上で、備中の合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の手により謀殺されてしまった。
謀殺に際し、毛利一門として鹿介と度々干戈を交えた小早川隆景は、その器量を高く評価しながらも武士として信の置ける者ではないとして、強硬に殺害を主張したとされる一方、輝元が主導したともされる。いずれにせよ輝元に、鹿介を生かす意思は全くなかったことだけは確かである。
ともあれ、尼子再興軍の中心的人物であった鹿介の死により、尼子氏再興の望みは完全に絶たれることとなった。鹿介の死後、その遺児である幸元は放浪生活を経て、慶長年間に入って伊丹鴻池で酒造業を営むようになった。当地の名を取って名を鴻池新六と改めたこの幸元こそが、後の鴻池財閥の始祖となったという。
フィクションにおける山中鹿介
今のところ主役になったりする作品は多くなく、モブキャラとしての出演が多い縁の下の力持ち的な役割を担っている。
戦国BASARAシリーズ
上記の美少年説を元にしているのかキャラデザインは美少年であり、今回のショタ枠の一人。
戦国無双シリーズ
詳細は『山中鹿介(戦国無双)』を参照。
信長の野望シリーズ
群雄伝から登場。「山中鹿之介」表記が用いられている。群雄伝は政治・武力にも優れた優れたスーパーキャラだったがのちのシリーズでは政治力は壊滅的になっている。
太閤立志伝シリーズ
Ⅰから登場。こちらも「山中鹿之介」表記。政治(特に内政)能力は期待できないが個人戦、軍団戦どちらもこなせる中々優秀な人材で、しかも尼子家が簡単に滅んで浪人しがちなのでリクルート候補に挙がりがち。Ⅱでは主人公と鍛錬次第で群雄伝時代のようなオールマイティ武将になれる。
Ⅳ以降では専用イベントが中々豊富なキャラ、主人公スタートすると冒頭から主家に次々と不幸イベントが襲い掛かるが、それを乗り越えると尼子家の再興に成功できる。
戦国ランス
エロゲーなので女性キャラ。七難八苦にめげない不幸なデコメガネ。名前は山中子鹿。
関連タグ
アカツキ:講談の彼のセリフを引用する。