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山中鹿介

やまなかしかのすけ

山中鹿介は、中国地方の戦国武将。尼子氏に仕え、主家の滅亡後もその再興のため度々兵を挙げ、仇敵である毛利氏に反攻を繰り返した。(1545年/1550年 - 1578年)
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山中鹿介(実在人物)

本名は山中 幸盛(ゆきもり)。通称である鹿介は「山中鹿之助」と表記される場合もある。この通称の由来には諸説あるが、一般的には家督と甲冑を譲られた際、その甲冑の三日月の前立てと鹿の角の脇立にちなんで名を改めたと伝えられている。

「山陰の麒麟児」の異名を取り、尼子家中でも特に智勇・忠義に優れた「尼子三勇士」(「尼子三傑」)の1人にも数えられるなど、類稀なる武勇と知略の持ち主として知られる。衰退して行く尼子氏への忠義を貫き、その復興を夢見ながらも悲運の最期を遂げた生き様は、後世「山中鹿之助」として講談や教科書などの題材とされ、広く人気を得ることとなった。中でも三日月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は非常に有名である。もっともこうした逸話から、一部の歴史ファンからは「ドM」という何とも有り難くない扱いをされる事もままある。

またこれも諸説あるものの、容姿端麗な美少年とも伝わっており、その事も人気により拍車をかけている。

青年期

天文9年(1540年)、もしくは天文14年(1545年)頃に、尼子氏家臣・山中満幸の次男として生まれたとされる。幼名は甚次郎(じんじろう)。
山中家は尼子氏の一門で庶流に当たり、父・満幸も家老として仕えていた事から、鹿介も例に漏れず幼少から尼子氏に仕えた。鹿介が幼い頃に父が病没した為生活は苦しく、そのため賢母と称された母の下、10歳にも満たない頃から合戦に参加し、さらに弓馬や軍法にも親しむ日々を送っていた。16歳の時には主君・尼子義久による山名攻めに従軍、豪傑として名高かった山名氏配下の豪傑・菊池音八を一騎討ちで討ち取る殊勲を上げている。その後尼子氏の重臣・亀井秀綱の養子となっていた時期もあったが、やがて山中家へと戻り、病弱だった兄・幸高から家督を譲られる。永禄3年(1560年)頃の事である。

鹿介が家督を継いだ当時、中国地方では毛利氏が大内氏などを降してその勢力を着々と広げており、かつては毛利氏を遥かに凌ぐ勢いだった尼子氏でさえも、本国出雲が毛利軍の脅威にさらされる状態にあった。永禄6年(1563年)にはいよいよ毛利氏による出雲攻めが本格化し、鹿介も尼子軍に従軍して白鹿城の戦いなどで奮戦、名立たる武将の首級を上げて、終には生涯不敗の武将・吉川元春を撤退に追い込んだ事もあった。永禄8年(1565年)の秋には、月山富田城攻めに毛利方として参陣していた石見の国人・品川将員(大膳)と一騎打ちに及び、これを討ち取るなどの活躍も見せた。

しかしそんな鹿介の奮戦も全体の戦況に大きな影響を及ぼすものではなく、1年半余りにも及ぶ月山富田城での持久戦は主君・義久の毛利氏への降伏という結果に終わり、戦国大名としての尼子氏は一時的に滅亡を迎える事となる。そこから、鹿介の尼子氏再興の日々が始まるのであった。

尼子氏再興運動(1度目)

浪人の身の上となった鹿介は、その後2年近くに亘り雌伏の時を窺う事となる。再び彼の名が歴史上に現れたのは永禄11年(1568年)の事で、当時京都で僧籍にあった尼子誠久の遺児・勝久(尼子義久のはとこ)を還俗させて擁立、諸国に逃散していた尼子氏の遺臣を糾合し、主家再興に向けて動き始める。そして翌永禄12年(1569年)、毛利氏が九州の大友氏との戦端を開いたのを好機と見た鹿介は、但馬の山名氏の助力も借りつつ遂に出雲へ侵攻を開始する。

出雲入りを果たした鹿介ら尼子再興軍は、忠山の砦より檄を発し国内に潜伏していた旧臣らを参集させ、わずか1週間足らずで3000にまで膨れ上がった軍勢はまず新山城を攻略。さらに宍道湖北岸に拠点として末次城を築き、出雲のみならず備後・備中や伯耆などへも勢力を拡大していった。当時大友氏との戦いに追われていたとはいえ、毛利氏もこの動きに対して全くの無策だった訳ではなく、討伐軍を度々差し向けているものの、尼子再興軍はこれを時に打ち破り、また時には自陣営に引き込む事で、戦局を優位に進めていた。

このような状況に至り、支配体制の危機を感じた毛利元就は、九州の戦線を放棄し尼子再興軍の鎮圧を優先させる事を決断。永禄13年(1570年)に入って間もなく、尼子再興軍が攻略を続けていた月山富田城へと進軍を開始する。これを迎え撃つべく尼子再興軍は布部にて迎撃の構えを見せ、2月には当地にて激戦が繰り広げられるも、最終的に毛利軍が尼子再興軍を破り、落城寸前であった月山富田城を解放するに至る。

この敗戦を機に尼子再興軍の勢力は一時的に衰え、その後元就の重病により手薄となった隙を突いて再度の反攻に打って出るものの、その勢いもまた一時的なものでしかなく、元亀2年(1571年)8月には再興軍の盟主であった尼子勝久が出雲を追われ、鹿介もまた吉川元春に敗れ、尾高城に幽閉されてしまう。鹿介は謀略を巡らし脱出に成功するも、1度目の再興運動はここに惨憺たる結果に終わった。

尼子氏再興運動(2度目)

一旦隠岐へ逃れた鹿介は、その後但馬にて潜伏生活を送り、先の敗北から1年余り後の元亀4年(1573年)に入って再び尼子氏再興に向けて動き始める。因幡を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を企図していた鹿介は、当地の旧主であった因幡山名氏と結託し勢力を拡大、わずか半年余り後の天正元年(1573年)8月から9月にかけて、毛利方の武田氏が守る鳥取城を攻略しこれを手中に収めた。

その後鹿介は10日で15城を攻略するなど、瞬く間に因幡東部を勢力下に収めるものの、それから間もなく鳥取城に入っていた因幡山名氏が調略により毛利方へ寝返った事で、一転その勢力も不安定なものとなってしまった。この予期せぬ劣勢を取り戻すべくその後も軍事行動や反毛利勢力との連携を強化、柴田勝家を通じて織田氏との繋がりを持ったのもこの時期の事であった。

しかし体勢を立て直し切れないまま、天正3年(1575年)には尼子再興軍を支援してきた但馬山名氏が毛利氏と和睦を結び、これによって尼子再興軍はさらに苦境に追い込まれる事となる。京都への道を確保すべく若桜鬼ヶ城に拠点を移し抵抗を続けていた鹿介も、毛利軍の東因幡侵攻や周辺の支援勢力の滅亡・衰退により孤立化、翌天正4年(1576年)5月頃に因幡からの撤退を余儀なくされた。2度目の尼子再興活動も、結局は実を結ぶ事なく終わったのである。

尼子氏再興運動(3度目)

京都に逃れた鹿介らは織田信長に謁見。この時信長からは「良き男」と称され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜ったとされる。これ以降、鹿介ら尼子再興軍は織田の傘下に入る形で、尼子氏の再興を目指す事となる。天正4年には明智光秀に従い丹波攻めへ参加、さらに天正5年(1577年)には織田信忠の下、松永久秀の籠る信貴山城攻略に当たり、二番乗りを果たすなどの功績を上げている。

そして同年10月、羽柴秀吉に播磨攻めの命が下った事で、尼子再興軍も羽柴軍と共に進軍を開始し、その年の暮れには上月城を攻略。鹿介と勝久らはそこを拠点とし、隣接する美作の国人に対する調略を開始した。年が明けた天正6年(1578年)1月には宇喜多氏による攻撃を受けるも、鹿介は夜討ちにてこれを打ち破っている。

しかしまたここでも予期せぬ事態が起こる。同年2月、三木城の別所長治が突如信長に叛旗を翻し、これを好機と見た毛利氏も急遽播磨に攻め込み、3万もの大軍で上月城を包囲してしまったのである。秀吉も荒木村重らと共に救援に向かったが、信長から長治の討伐を優先するよう厳命され、結果孤立無援となった上月城は、2カ月余りに亘る籠城戦の末、天正6年7月に毛利軍に降伏した。

悲運の最期

降伏の条件として主君・尼子勝久は切腹を命ぜられた。主君の助命に尽力しながらもそれを果たせなかった鹿介は、勝久との別れの際に万策尽きた事を詫びつつ、自らも吉川元春と刺し違えて後を追うつもりであると涙ながらに申し立てたという。それに対し勝久からは、わずかな間ながらも尼子の大将として良い夢を見させてもらったと感謝の言葉を贈られると共に、自らの命と引き換えに部下の命を救えるならば本望であるとして、また元春も智勇に優れた武将ゆえ差し違える機会も巡って来ないだろうとして、生き延びて別の尼子の庶子の下で尼子再興を目指して欲しいと諭されたとされる。

降伏の後、鹿介は立原久綱と共に生け捕りとなり、毛利輝元が在陣していた備中松山城へと護送される事となる。しかしその途上で、備中の合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の手により謀殺されてしまった。時に天正6年7月17日(1578年8月20日)、享年は34もしくは39と伝わる。謀殺に際し、毛利一門として鹿介と度々干戈を交えた小早川隆景は、その器量を高く評価しながらも武士として信の置ける者ではないとして、強硬に殺害を主張したとされる。

ともあれ、尼子再興軍の中心的人物であった鹿介の死により、尼子氏再興の望みは完全に絶たれることとなった。鹿介の死後、その遺児である幸元は放浪生活を経て、慶長年間に入って伊丹鴻池で酒造業を営むようになった。当地の名を取って名を鴻池新六と改めたこの幸元こそが、後の鴻池財閥の始祖となったという。

山中鹿介(架空人物)

今のところ主役になったりする作品は多くなく、モブキャラとしての出演が多い縁の下の力持ち的な役割を担っている。

山中鹿介戦国BASARA

鹿之介


戦国BASARA4に出演することが決定した。表記は「山中鹿之介」。
上記の美少年説を元にしているのかキャラデザインは美少年であり、今回のショタ枠の一人。

山中鹿介(戦国無双)

武器:槍(2、3Emp~4。2のみ刀剣) 声:岡本寛志(2Emp、4) 草尾毅(2) 神谷浩史(3Emp)

月よ、我に七難八苦を、強き敵を、勝利を与えよ!」(Empriesにおける特殊セリフ)
いかな苦難があろうとお家に尽くそう!天よ、我らに七難八苦を与えたまえ!」(3Emp:登用時台詞)

モブ(NPC)武将として登場。戦国無双3 Empires毛利家シナリオに登場する。(戦国無双2に護衛武将として登場しているが2empiresでは一般武将の猛将のデザインだが声が豪将モデルのボイスであった。また2猛将伝では山中鹿之介表記になっている)
4では固有グラフィックがつき、empiresでは前述の宣誓のイベント「七難八苦」というものがある。

山中鹿介(太閤立志伝

専用イベントが中々豊富なキャラ、主人公スタートすると冒頭から主家に次々と不幸イベントが襲い掛かるが、それを乗り越えると尼子家の再興に成功できる。
武将としては政治は駄目だが個人戦、軍団戦どちらもこなせる中々優秀な人材で、しかも尼子家が簡単に滅んで浪人しがちなのでリクルート候補に挙がりがち。

山中子鹿戦国ランス

エロゲーなので女性キャラ。七難八苦にめげない不幸なデコメガネ。

関連タグ

日本史 戦国武将 中国勢
山中幸盛 山中鹿之助 尼子義久 尼子勝久
アカツキ - 講談の彼のセリフを引用する。

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