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尼子経久

あまごつねひさ

尼子経久は、中国地方の戦国武将。一度は守護代の地位を追われながらも後に復権、さらに主家からも独立して下剋上を果たし、「謀聖」「十一ヶ国太守」と呼ばれるまでの大物にのし上がった(1458年 - 1541年)。
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人物編集

中国地方出雲(島根)にて活躍し、後に毛利元就宇喜多直家と共に三大謀将の1人に数えられた戦国武将。一度は浪人に身を落としながらも、やがて山陰・山陽地帯の11カ国を支配するまでに成り上がった、「下克上」の先駆者とも言える人物である。


文武両道に長け、謀略に優れながらも「天性無欲正直の人」と呼ばれ、家臣が自分の私物を褒めると何でも与えてしまう癖があった。これには、「威厳が…」ということで家中も困っていたらしく、家臣はうっかり物を褒めないようにしたという。ある日家臣が「これはいくらなんでも」と思い、庭に生えていた松を褒めたところ、経久はその家臣に贈ろうと松を抜かせた上、大き過ぎて城内から出せないと知ると細かく切り分けてまで遣わそうとした、という逸話すら残っている程である。


転落と再起編集

長禄2年11月20日(1458年12月25日)、出雲守護代を務める尼子氏の嫡男として生を受ける。幼名は又四郎。弟に久幸などがいる。十代後半の頃には主家である京極氏の人質として、5年間を京都で過ごしており、この間に当時としては高い教養を身に着け、元服そして家督継承もこの頃に済ませている。


出雲への下向後、次第に国人衆と結託して京極氏の有する寺社領の押領や、幕府より命じられていた段銭徴収の拒否を通じ、独自の権力基盤の構築を志向するようになる。しかしこれは塩冶氏を始め競合する出雲の国人らのみならず、主家である京極氏からの反発や対立を招く行為でもあり、文明16年(1484年)には居城である月山富田城を包囲され、守護代の職のみならず城をも追われる事となる。


これにより守護代から一転、浪人の身の上となった経久だが、その後も出雲に留まったまま再起の機会を窺い、翌々年の文明18年(1486年)には正月の年賀を祝している隙を突いて城代を討ち、月山富田城を奪還したとされる。もっともその後の京極氏との関係性なども考えると、月山富田城の奪還は後世軍記物にて描かれたような鮮やかな奇襲によるものではなく、より穏便な形であったのではないかという見方もある。ともあれ、城を取り戻した経久の完全復権に向けた動きはその後も続き、長享2年(1488年)には経久追放を主導していた三沢氏を降し、さらに他の国人衆も傘下に収めようやく守護代の地位に返り咲いたのが明応9年(1500年)。実に15年以上にも亘る苦闘であった。


守護代に再任された頃には主君である京極政経との関係も修復され、政経亡き後は出雲大社の造営に着手し、国内の有力国人であった宍道氏や塩冶氏とも政略結婚や養子縁組などを通じ関係強化を図るなど、着々と出雲を手の内に収めていった。


勢力拡大~大内氏との対立編集

16世紀初頭の中国地方では、周防・長門他を領する大内氏が一大勢力を築いており、経久も当初は大内義興の上洛軍に従軍し、子息の尼子国久塩冶興久も義興や細川高国から偏諱を受けるなど、大内氏と良好な関係を構築しようとした節が見られる。とはいえ石見守護職を巡り、大内氏への反感を抱いていた山名氏と結託して大内方の諸城を攻撃したり、尼子氏による出雲西部の支配が確立した事で、石見や備後・安芸など周辺諸国への進出が現実味を帯びてくるなど、次第にその関係性は微妙なものへと転じていく。


義興の周防への帰国、経久による出雲西部の支配の確立を経て、大永年間に入るといよいよ尼子氏による石見・安芸方面への侵攻が始まり、大内氏や山名氏との本格的な対立へと発展する。大永3年(1523年)には重臣である亀井秀綱を通して、安芸の国人である毛利氏に大内方の鏡山城を落とさせ、さらに翌大永4年(1524年)には経久自ら軍を率いて西伯耆を一晩のうちに制圧、その版図を拡大していった。


しかし順調かに見えた勢力拡大も、安芸武田氏を始めとする尼子方の国人が次々に大内氏に敗れ、また毛利幸松丸死後に発生した多治比元就相合元綱の毛利家家督争いにも介入したが、最終的には元就が当主に就き大内氏に鞍替えするなど、一時尼子に有利な方向へと傾いていた安芸国内の勢力図にも俄かに変化が生じ始める事となる。さらに伯耆・備後方面でも、それまで微妙な関係にあった山名氏が明確に尼子氏に反旗を翻した事で、尼子氏は三方から包囲されるという厳しい情勢に追い込まれる格好となった。


息子たちの死~孫への家督継承編集

このように大内・山名など諸勢力との苦闘に明け暮れていた経久だが、悩みの種は外だけでなく内にも存在していた。守護代復帰から20年以上を経てなお、傘下である出雲の国人衆には未だ確実な支配が及んでいた訳ではなく、経久はこれらの国人衆をあの手この手で取りまとめようと腐心していた。一連の外征による版図拡大も、明確な目標を設ける事でこれらの国人衆を結束させる意図があったが、外征の長期化は必然的に国人衆に多大な負担を強いるものであり、その事への反感も次第に高まっていく事となる。


そしてそれが一気に表出したのが、享禄3年(1530年)に勃発した三男・塩冶興久による反乱であった。直接の原因は所領加増を巡る興久と経久との確執であったが、そこに前述した国人衆の負担増大への反感、さらに重臣達の勢力争いなども絡む事で、興久の側には出雲大社や三沢氏など出雲西南部の諸勢力が参集し、反乱は尼子の足下をも揺るがしかねない大規模なものへと発展した。当てにしていた大内氏の助力を得られぬまま、最終的に興久が自害する形で幕引きとなるも、3年余りに亘って続いたこの反乱は尼子家中だけでなく、出雲全体の支配体制や権力基盤の致命的な問題までも浮き彫りにする結果となった。


さて、経久の息子には興久の他に前出の国久、さらにもう一人嫡男の政久がいた。「花実相の大将」と称され、経久からも将来を嘱望されていた政久だったが、塩冶興久の乱から遡ること10年余り前、永正15年(1518年)の阿用城攻略の折に味方を鼓舞するため得意の笛を奏でていたところ、これを標的とした敵方の矢に喉を撃ち抜かれ陣没。政久の早過ぎる死を大いに悼み、その系統が絶える事を惜しんだ経久は政久の息子・詮久を、早くから後継者に定める事とした。


若年ながらも伯耆守護代を任され、さらに叔父である興久の反乱の鎮圧においても高い功績を上げるなど、めきめきと頭角を現しつつあったこの嫡孫に、長らく尼子氏を率いていた経久が正式に家督を譲り隠居する事を決意したのは、経久も80歳を迎えようとしていた天文6年(1537年)の事であった。


最晩年編集

家督を詮久に譲った同じ年、尼子氏は大内氏が有していた石見銀山を手中に収め、さらに東への勢力拡大を企図して播磨への侵攻を開始。当地の守護であった赤松政祐を堺に追い、その余勢を駆って詮久も上洛の構えを見せていた。しかしこれら一連の動きは塩冶興久の乱の後、表向きは和睦状態にあった大内氏を刺激するものに他ならず、豊後の大友氏との関係修復や石見銀山の奪回などをきっかけに、大内氏は尼子氏と再度対立関係に転じる事となる。


とはいえ安芸における尼子氏の優勢は依然揺るがず、天文9年(1540年)には後顧の憂いを断つ意味合いなどから、詮久自ら毛利氏の討伐に打って出る事を決意する。この討伐には当時尼子家中の重鎮であった久幸、そして隠居の身であった経久からも慎重論が唱えられたとされるが、それが容れられる事なく毛利討伐は決行に移され、二度に亘る侵攻は最終的に尼子軍の大敗、そして久幸や安芸国内での勢力基盤をも失う結果に終わった(吉田郡山城の戦い)。


この戦いを機に安芸のみならず備後や石見、さらには播磨などでも尼子に対する逆風が強まりつつある中、経久はその帰結を見届ける事無く翌天文10年11月13日(1541年11月30日)、月山富田城にて84年の波乱に満ちた生涯を閉じた。尼子氏を一代で山陰・山陽地方有数の大勢力にまで押し上げながらも、対外抗争だけでなく内政・家中の結束にも様々な不安材料を残したままの経久の死であったが、後を継いだ晴久(同年に詮久より改名)はそれらの難題に立ち向かい、尼子氏の最盛期を現出させる事となる。


創作での尼子経久編集

NHK大河ドラマ『毛利元就』編集

尼子燃ゆ

名将と呼ばれる者は、みな悪徳と背中合わせに生きておる

演:緒形拳

物語前半の重要人物として登場。冷徹非情な野心家として強い存在感を発揮する一方、主人公である元就にとっては強大な敵であると同時に、自身の生き方に強い影響を与える存在としても描かれている。元々は萬屋錦之介が演じる予定であったが病気のため降板、緒形が代役として起用されたという経緯がある。


お砂場・尼子経久(戦国コレクション)編集

…パーティー楽しみだな


ラヴヘブン編集

乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはRでの登場。

持ち物を褒められると高価なものでも喜んで与えてしまう。

異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。


関連タグ編集

戦国時代 戦国武将 中国地方 中国勢 尼子晴久

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