解説
島根県出雲市(出雲国の西部)に鎮座する神社である。一般に「いづもたいしゃ」と読まれることも多いが、正式には「いづもおおやしろ」で、公式サイト内でもそう表記されている。
旧称は「杵築大社」。出雲国の東部にある熊野大社と並ぶ由緒と規模を持つ神社であったが、中世に宮司(国造家)が熊野から杵築へ本拠を移してからは杵築大社の方が有名になり、明治に入って「出雲大社」に改名した。
祭神は大国主大神(大国主、オオクニヌシ)。縁結びの神様として知られる。10月(神無月、出雲地方では神在月)には全国から八百万の神様が集まると言われている。
中世には、熊野大社の祭神(と同体と扱われる神)である須佐男命(スサノオ)が主な祭神になっていた時代もあった。(江戸時代初期に奉納された鳥居の中にも「主祭神は須佐男命」という前提の碑文が彫られているものもある)
この「誤解」が解けて「主祭神は大国主大神」と見做されるようになったのは、江戸時代でも国学が発達して以降と思われる。
代々宮司に就任する社家は出雲国造家と言われ、日本では皇室と並ぶ、また世界でも有数の古い家柄である。南北朝時代に二系統に分かれ、兄(五男)の系統が千家家、弟(六男)の系統が北島家となった。明治以降は両家とも寺社家華族として男爵に叙されたが、政府は宮司就任の待遇などについては千家家を優遇したために北島家が政府公認の神職を辞職、以降北島家は出雲教を創設して独自に祭祀を行っている。一方の千家家はその後も出雲大社の宮司を継承したが、こちらも伊勢神宮を優遇する政府との対立により、独自に出雲大社教を創設し、独自の布教活動を進めた(あと、当時の神社は自由な布教を禁止されていたという事情もある)。なお両教はあくまで国造家による独自の信仰布教のための宗教団体に過ぎず、出雲大社自体は現在でも国家神道を継承した神社本庁の管理下にあり、千家家の宮司は代々神社本庁にも属している。
平成26年には、千家宮司家の次期後継者である千家国麿氏と、大正天皇の四男三笠宮崇仁親王の孫にあたる典子女王(高円宮家次女)の婚約が発表され、御結婚なされた。なお、出雲国造家自体は皇室と先祖が同じ天津神の子孫と伝えられており、出雲大社が祀る大国主の子孫ではないと言われている(大国主と同じ国津神系の子孫には三輪氏、諏訪氏、宗像氏などがいると言われる)。
本殿は古くは高さ16丈(約48m)にもなる高さを誇ったとされる。雲太和二京三。上古(更に昔)はその倍の96mもの高さを誇っていたと言われるが、何れの場合も当時の建築技術で建物を持たせるには到底無理があり、何度となく倒壊したとされる。平安期と思われる、古代出雲大社の基礎となる柱(3本の太い柱を鉄の輪でまとめたもの)が現在の本殿の近くで発掘されており、少なくとも古代出雲大社自体は実在した可能性が高まった。
なお、現在の本殿は延享元年(西暦1744年)建築で高さ8丈(約24m)。今でも神社本殿としては最大級である。
伊勢神宮と同じように本殿を作り直す「遷宮」が60年周期であり、平成25年はその遷宮の年に当たるが、伊勢神宮の「式年遷宮」と重なる珍しい年となり、二つ合わせて「大遷宮」と呼んでいる。
関連イラスト
古代本殿想像図
大国主大神