尼子国久
あまごくにひさ
出雲を中心に、山陰に勢力を有していた戦国大名・尼子経久の次男に当たる。兄に政久、弟に塩冶興久、子息に誠久、豊久らがいる。
文武に優れ笛の名手でもあった兄とは異なり、「文に疎く政道に誤りがあるかも知れぬが、軍務にかけては鬼神のごとき」と父・経久が評したように、国久はどちらかといえば武勇に秀でた武将であったと伝わる。実際国久も叔父の尼子久幸が率いていた精鋭部隊「新宮党」を継承し、尼子氏の勢力拡大に多大な功績を残すに至っている。
しかしこうした軍事面での貢献ぶり、それに尼子一門の中でも独立性の高い立場であった事は、必然的に尼子宗家から警戒の念を抱かれるものでもあり、またこれらを背景とした国久や息子の誠久の増長した振る舞いも、宗家と新宮党の軋轢に拍車をかけるものであった。結果として、宗家当主で国久の甥でもあった尼子晴久は、家中の統一を企図して新宮党の粛清を断行、国久親子以下その一族の大半は殺害の憂き目にあった。
この新宮党粛清により、それまで国久を通して間接的な統治を余儀なくされていた、杵築大社を始めとする出雲西部にも直接尼子宗家の影響力が及び、晴久の悲願であった出雲一国の直接統治も現実のものとなった。しかし一方で長期的な目で見れば、次代の義久の治世において若年の当主を支えるべき有力な親族衆の欠如という、深刻な事態を誘発する事ともなったのである。
前半生
明応元年(1492年)に、尼子経久と吉川経基の娘との間に生を受ける。通称は孫四郎、後に室町幕府管領・細川高国の偏諱を受けて国久と名乗る。尼子姓ではあるものの、当初は出雲東部の有力豪族・吉田氏の養子に入っていたとされる。弟の興久もまた、出雲の有力者であった塩冶氏の元に養子入りしており、これら一連の動きは父・経久による出雲国内の有力国人の懐柔策の一環であったと見られている。
既に永正年間より、隣国伯耆への進出に乗り出していた尼子氏であったが、大永4年(1524年)には国久率いる軍勢が、尾高城を始めとする伯耆の諸城を瞬く間に攻略し(大永の五月崩れ)、伯耆への勢力拡大に一役買ったと見られている(もっとも、この一連の軍事行動に関しては実存性に否定的な見解も示されている)。またこれに先んじて、永正10年(1518年)の磨石城攻めで兄・政久が戦死すると、その死を嘆いた父・経久の命により国久が磨石城の攻略に当たり、報復として城主の桜井宗的を始め城兵をことごとく殺害せしめている。
天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いでは、その威力偵察も兼ねて国久勢が備後へと遠征、江の川経由での進軍路の確保に当たったが、この時は宍戸氏の反撃に遭い失敗している。またこの一連の戦いにて叔父・久幸が殿を務め討死すると、彼が率いていた精鋭集団・新宮党を国久が受け継ぎ、天文11年(1542年)からの大内氏による出雲侵攻の際には逆に新宮党が大内軍を撃退。その後も備後・伯耆における軍事行動でも多大な功績を上げ、吉田郡山城の戦いでの敗北で失われかけた尼子氏の威勢回復にも貢献するなど、軍事面における国久の占める比重はさらに高まる事となった。
新宮党の隆盛と宗家との対立
この頃になると、新宮党は本拠である新宮谷(月山富田城の北麓)に加え、国久が既に有していた吉田氏の領地である出雲東部、さらに出雲西部にあった弟・興久の遺領をも支配領域としており、これらの地域に関しては尼子宗家とは別に新宮党が独立した権限を有していた。
実際、尼子宗家による杵築大社の諸問題への介入に際しても、同社を支配領域に含んでいた新宮党の軍事力に頼らざるを得ないところがあり、出雲西部における尼子氏の支配は事実上、新宮党(国久)を通しての間接的なものとなるなど、尼子宗家による出雲一国の直轄支配や中央集権体制の確立を進めていた当主・晴久にとっては頭痛の種となっていた。
新宮党と尼子宗家との軋轢は、国内の支配体制に関わるところだけに留まらなかった。軍事面での貢献を背景に、国久と息子・誠久を始めとする新宮党の一族が横柄な振る舞いを見せ始めたのも、こうした状況にさらなる拍車をかけるものであった。
これに関しては事実か定かでない様々な逸話も残されているが、いずれにせよ尼子家中において新宮党やそれを率いる国久父子への反発、もしくは晴久と国久とが出した命令・方針の相違を巡る困惑があったのは確かと見られている(そもそも新宮党内部でさえも、後継者を巡って国久の孫の氏久と、その叔父に当たる敬久との間で対立が生じ、さらにその敬久と兄の誠久の間でも見解の相違が多々見られるなど、深刻な不協和音が生じていた)。
このような経緯から、新宮党の貢献ぶりと反比例するかのように国久と晴久との関係は急速に冷え込んでいく事となるのだが、それでも晴久には国久の娘が正室として嫁いでいた事もあり、彼女の存命のうちは決定的な関係破綻には至らなかった。
新宮党粛清
しかし天文23年11月1日(1554年11月25日)、国久は月山富田城への登城の途中で、晴久の命を受けた家臣らによって誅殺されてしまう。享年63。これに先んじて前述の国久の娘が死去しており、婚姻関係の消滅を機に晴久が新宮党の粛清を断行した事によるものであった。息子の誠久や他の一族も自害や誅殺、もしくは逃亡に追い込まれ、尼子家中において一大勢力を築いていた新宮党もここに壊滅の時を迎えたのである。
この新宮党粛清については、次のような逸話も残されている。それは当時、陶晴賢との対決を控えていた毛利元就が、後顧の憂いを断つべく国久と晴久の関係悪化を利用し、国久が元就と通じていると思わせる書状を晴久の元に渡らせた事で、疑心暗鬼に陥った晴久によって新宮党の粛清、ひいては尼子氏の軍事力の低下に繋がった・・・というものである。
謀神とも称される元就の人柄も相まって、広く世に知られたこの逸話ではあるが、実際のところは同時期に発生した江良房栄(陶晴賢家臣)の謀殺に由来した推測、もしくは創作であるとの見方が現在では主流となっている。実際その直後に晴久が実行した備前への遠征などといった事実からも、新宮党の粛清による尼子氏の軍事力の低下はさしたる程でもなかった事が窺える。
こうして国久やその一族の大半は、新宮党の粛清によって討滅の憂き目に遭ったが、国久の孫に当たる氏久(誠久の長男、晴久の末子との説も)や勝久(同五男)のように誅殺を免れた者も中にはおり、後に毛利氏の攻勢の前に尼子氏が滅亡すると、山中鹿介らに擁立された勝久ら尼子一族の残党がその再興を期して、毛利氏と度々干戈を交える事となる。