ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

プロフィール

生没:1849年12月7日(嘉永2年10月23日)-1940年〈昭和15年〉11月24日。

徳大寺公純の次男。西園寺師季の養子

西園寺家は公望の実家である徳大寺家同様に藤原北家閑院流。待賢門院藤原璋子の兄・藤原通季を祖とする。

4代目の公経は平清盛の異母弟・平頼盛の曾孫にあたり源頼朝の姉妹・坊門姫の娘を妻としたことから鎌倉幕府との繋がりも深く娘婿・九条道家や孫・二条良実が関白だった時代には摂関家以上の力を持ち良実の弟・九条三寅(頼経)の将軍就任などにも関わった。

幕末期

幼少より学習院で学び、さらに剣術も学んだとされる。ただし公家としては必須であるはずの和歌は苦手であったという。

 その後祐宮(のちの明治天皇)の近習となるがこのとき岩倉具視とも仲良くなりその縁もあり若くして参与となる。公家ながら武人指向が強く、公家名の「公望」を嫌い、「望一郎」を名乗ったという。

戊辰戦争などでは最前線にいたともされる。この戦争での活躍で、ますます岩倉の信用を深めた。

ちなみに、戊辰戦争頃に撮影された、総髪を結った武士姿の若き日の公望の写真が現存する。

明治維新後

フランス留学

新政府では知事の職を得たが、軍人となるためにフランス語を学び、留学を志し認められた。

 留学中のフランスは第三共和制の成立する前後であり、パリでは革命政府が成立していたものの、これには共感を抱かなかったといわれる。また公費での留学であったが、政府が留学生を減らすことを考えていることを知ると私費での留学に切り替えた(ただし明治天皇がじきじきに支援したりもしていたらしいが)。またこの時代、後にフランスで首相となるクレマンソーなどとの友好を得た。留学は10年間続いた。

 留学から帰国後、特に何もしていなかったが留学時代の知り合いと新聞をつくり、社長となった。ただし周囲からやめるよう説得されたが、とうとう天皇からまでやめるようにいわれたため社長は辞任、新聞もあまり売れなかったため廃刊とした。

官僚として

 その後参事院(伊藤博文国会開設の準備のために設置した機関)議官補となり、ヨーロッパにいったりしている。その議官となった。

 公使としてオーストリアドイツに派遣されたりしている(なお、この時期リウマチとなっている)。

 その後賞勲局(勲章・褒章など栄典に関する事務を所管する内閣府の部署)総裁となったり、法典調査会副総裁の副総裁となったりしている。明治29年に退職。

 また、枢密院(憲法の問題も扱った天皇の諮問機関)の議長を明治33年から明治36年までこなしている。

政治家転身

軍人志向の公望は政治家になる気はなかったがフランス留学時に薦められたこと、侯爵の地位を得る(これにより自動的に貴族院議員となる)ことにより政治家となった。

 明治26年には貴族院副議長となり、明治27年には井上毅(いのうえこわし)※1の代わりとして第2次伊藤内閣において文部大臣となる。この際日本を西洋諸国のように開明進歩させる教育を唱えたといわれる。また結核であった陸奥宗光の後をついで外務大臣となる。

 しかし内閣が倒れ、松方正義内閣総理大臣となると数日後に辞任、その後シビリアンコントロールや教育制度を学ぶため再びフランスに渡るが、虫垂炎のため帰国。

 帰国後、明治31年には第3次伊藤内閣の文部大臣となり、新たな教育勅語の作成をもくろむものの虫垂炎の後遺症のため4ヶ月で辞任。

※1:天保14年生。元熊本藩士。フランスで法律を学び岩倉や伊藤のブレーンなどとして活躍。大日本帝国憲法教育勅語の作成に関わる。明治28年結核により文相在任中のまま死去。

立憲政友会

 伊藤博文の立憲政友会の立ち上げに参加して重要な地位に着く。第4次伊藤内閣において病気であった伊藤博文にかわり内閣総理大臣臨時代理になっている。

 明治36年、伊藤博文が立憲政友会の代表を追われると指名を受けて代表に就任し、大正14年までその職にあった。

 明治39年、内閣総理大臣であった桂太郎との密約で内閣総理大臣となる。なおこの内閣は各方面に配慮したものであったといわれる。しかし元老(政府の最高首脳であった重臣であり、主権者たる天皇の諮問により総理大臣の決定や条約の締結などを決定する人々)の圧力と自身の体調不良により明治41年には総辞職した。

 それ以降は政治家としての意欲を失いかけていたと思われるが、明治43年にはまたもや桂との話し合いにより内閣総理大臣となった。今回は立憲政友会中心の組閣であったがそれは原敬の意向もあったとされる(なお、この二人はこの内閣内においては反目しあっている)。大正元年、軍部の要求を通さなかったことにより陸軍大臣の後継を得ることができず総辞職。

その後、桂が三度総理大臣となると世論はこれに反対したため、内閣の不信任案を提出、これを阻止するため大正天皇の勅命まで出され、西園寺は議員を説得したものの説得も効果なく、内閣不信任案は通過してしまう。これにより党代表を辞任を表明したものの、慰留される(ただし政党の運営にはもうかかわらなかった)。後継の総理大臣指名を健康問題のため辞退する。

この時期は「桂園時代」とも言われたりする。

大正期以降

 大正期には元老となっており、他の元老がその後死亡したこと、また西園寺自体この制度を廃止しようとして新たに元老を指名しなかった節もあることにより最後の元老と呼ばれ、一部からは老害扱いされていたとされる。実際、新聞の社説にて満州での軍事行動を一日でも早く中止するよう主張した際には「老人の繰り言」と一笑に付された。

しかし、押しが弱く東條英機ら軍部に歯止めを掛けられず満州事変日中戦争といった一連の流れを止められなかった。太平洋戦争開戦前年である1940年に満90歳(享年92歳)で死去。病床で日本が戦争へと突き進む未来を憂慮し「誰が一体この国を引っ張っていくのや……」と呟き、そのまま永眠した。

人物

  • 元々政治家指向がなかったためか、良くも悪くも政権欲に乏しかったという。
  • 改革よりも調整を得意とするタイプであり、原敬にもトップには不向きと評された。
  • イギリスアメリカを信頼し協調外交を繰り広げるが国粋主義者や強硬派の軍人たちには柔弱外交と嫌われていた。
  • 平沼騏一郎(平沼赳夫の曾祖叔父)とは特に水と油の関係であり、東京裁判の時でさえも平沼は西園寺こそが国を誤らせた元凶と指弾している。
  • 天皇の政治参加には断固反対していた。これは天皇親政(院政含む)にて、かつての後白河法皇後醍醐天皇のように政治において誤謬した場合、天皇(または治天の君)の地位の失墜につながるため皇室の藩屏たる自分がそのようなことを許してはならないという考えを持っていたためであった。
  • 早くから議会政治を志向していたともされるが、フランス留学の経験から大衆の熱狂については冷ややかな面もあった。
  • 近衛文麿を首相に推挙したことは最後まで後悔していたという。
  • 政治家として中枢に入ると反対派や一部の貴族から「西園寺公宗の子孫」と中傷されたという。この西園寺家は鎌倉幕府時代に「六波羅探題(幕府)と朝廷(京都)の中を取り持つ役職・関東申次」についていたが鎌倉が滅んで失職、官位はあるものの権威が落ちたために政治体制を戻そうと北条残党と内通したとして「公卿の死刑執行は平治の乱以来」という不名誉を背負い処刑された。彼の孫の代で復権したが何度か他家から養子を取り公望の実家徳大寺家(西園寺家分家)も西園寺家本家も公宗の血を引いていない、これは当然公望自身もそうで公宗はいわば西園寺家としての先祖となる。

教育家として

  • 明治2年に私塾立命館を自宅に設立。

これは政府の不信を買い一年弱で閉鎖(なお学校法人立命館の設立にはかかわっていないが、彼の公設秘書であった中川小十郎が設立したものであり、それを支援している)。

  • 明治13年、明治法律学校(後の明治大学)の講師就任。
  • 文部大臣時代には京都帝国大学(後の京都大学)の設立に関与。
  • 明治34年、日本女子大学の設立に関与。

系譜

東山天皇の6世孫に当たり女系として西園寺公経の血も引いている。また男系でも女系でも鷹司家の血を引いている。

コメント

コメントが未記入です

pixivに投稿されたイラスト

すべて見る

pixivに投稿された小説

すべて見る
  • 『黒禍』

    嘉仁を想う西園寺。周囲の仕打ちによって次第に疲れ果てていく嘉仁は想い人である西園寺にすがる。そんな嘉仁の苦悩にこころを添わせつつも、『政治家』としての考えをを持たざるを得ない西園寺の苦痛。それは嘉仁を誰より愛する西園寺の中に生まれた『痛み』と『黒く澱んだ禍』だった。
  • 西園寺公望、巴里で鏡を割る

    総理倶楽部の1巻のおまけマンガにあった「西園寺はガラスを割らしてときゃそれっぽくなる!」の 西園寺の鏡割り逸話話です。
  • 『命の証を』

    政友会総裁に原敬氏が就任したときのイメージで書いた小説です。 原敬氏と山縣公は個人的に、史実で見ても最大の『好敵手』であり『畏友』だと思っています。 そして、陸奥伯は果てしなく(史実的にも)原氏のご夫君だと思っています。夢見させてください。西園寺公はいつもながら掴めない御仁だと思ってます。そういうのが好きです。
  • 『暁の空へ』

    岡崎が原の為に告げた言葉。その想い。しかし、その岡崎の献身は原には辛かった。そして、その心の疲れのままに自分を捨てようとすらした原に松方は言葉を紡ぐ。
  • 『桜舞う日に』

    自身の性別と自身が追う家名。その意味の間で揺れる西園寺。焦がれる相手は自身を見て何を思うのか。嘉仁の想いは。
  • 『仮令、愚かと言われても』

    関東軍が、政府はおろか、帝の裁可すら取らずに勝手に大陸で起こした軍事行動、その事変。それは首相たる文麿の心を刺すものだった。そんな文麿に対して西園寺が持ち掛けてきた会合の約束。そこで久方ぶりに会った人物を前に文麿は心を決める。あくまで戦うと。『運命の子』として、時代の生贄と定められている自分を知っていても、分かっていても、自分は最後まで戦う。文麿はそう決意していた。
  • 『生きる意味が分からなくとも』

    11月28日、井上馨さん、お誕生日おめでとうございます!。と、お誕生日のお祝いという事で、書かせていただきました。ちゃんとした『史料』を調べていくと分かります。本当に様々なことを国民の為に国の為に頑張ってらっしゃる方です。懸命に。なのに、どうしてこうも悪く言われるのかと思います。引用が『誰かの主観的な見解や口述のみ』や『誰が書いたかわからないネットからの孫引き』や『同人誌の孫引き』とか。そういうのを信じるって、駄目でしょ、と思います。とか言いつつ、私も『死に遠い』というという特殊な書き方を『敢えて』書かせていただいていますが。色々と事情がある方ですので。また『小説』として書いているつもりですからそれ故の切り口で書きたいなと。でも『嘘』と『小説』は『全く別』だと思うので。皆様、誰かを調べようと思う時は信用価値の高い『史書』の方をまず当たってみてください。国会図書館のweb閲覧ページで『世外井上公伝』はすぐ見れます、読めます。私はそれを下敷きにして『小説』を書かせていただいてます。井上さんの雅号である『世外』。それを、『この世の外』、『限りあるこの世』の『外』という解釈の意味合いで。そこに、井上さんの『数多の実績』から私が感じる『信念』を乗せることが少しでもできたらいいなと思っています。調べれば調べるほど、井上さんが大好きになります。尊敬の念が湧いていきます。そんな、大好きな井上さんのお誕生日。本当におめでとうございます!、大好きです!!
    17,002文字pixiv小説作品
  • 『これは、誰かが見せた、絶望させるための夢。』  西園寺はある夢を見る。 西園寺公が大切な人の生きている夢を見る話。 本当にただそれだけです。 【作者から】 西園寺公、御誕生日おめでとうございます…大遅刻ですね。 悩みに悩んだ結末なのでお赦しください。 本当は今際の時を書こうと思ったのですがどうしても書けませんでした。もう少し史料を読んでからにします。 (ネタバレのようなつぶやき) 特に今回はオチらしいオチもないです。 西園寺公は桂園時代が終わったあと辺りから元々淡々とした冷静な性格だったのに余計に拍車がかかったような気がします。 悩んでいても仕方ないし、苦しんで絶望しても仕方ない。ただその死を受け入れるしかないのは分かっているのだけどそれでもどこか割り切れていないところがあるんじゃないかな…と。完全に過去を過去として割り切らないのが拙宅の西園寺公でございます。 最後の言葉はご想像にお任せします。 長くなりましたが西園寺公、御誕生日おめでとうございます。 ※この話はフィクションです。史実を知りたい方は一次史料を読むことをおすすめします。
  • 『夢を見れぬ者達 改訂版』

    全て分かっていながら分からないフリをする哀しい者達。原はそんな大正帝を見てまた決意を新たにする。
  • 黒禍(くろまがつ)

    嘉仁を想う西園寺。周囲の仕打ちによって次第に疲れ果てていく嘉仁は想い人である西園寺にすがる。 そんな嘉仁の苦悩にこころを添わせつつも、『政治家』としての考えをを持たざるを得ない西園寺の苦痛。 それは嘉仁を誰より愛する西園寺の中に生まれた『痛み』と『黒く澱んだ禍』だった。
  • 『絶望のその先へ』

    陸奥の死を以てして原はまたその姿も決意の強さも変わる。想いひとの死の先に、その絶望の先に自身の幸せな未来を見ることはできない。それでも、原は陸奥の志を継いで歩んでゆく。この国の為に。
  • 『尊厳と自由』

    西園寺に恋する嘉仁。その想いを見透かすように、だが、同時にはぐらかすようにする西園寺。 二人の間にある距離。大人と子供。その距離もまた。すべての距離を埋めたいと思わずにはおれない嘉仁だった。

このタグがついたpixivの作品閲覧データ

西園寺公望
8
編集履歴
西園寺公望
8
編集履歴