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後深草天皇
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後深草天皇とは、日本の第89代天皇。

生 没:寛元元年6月10日(1243年6月28日) - 嘉元2年7月16日(1304年8月17日)

 諱 :久仁

追 号:後深草院


概要

第88代・後嵯峨天皇と、その中宮の西園寺姞子(大宮院、西園寺実氏の娘)との間に第三皇子として生を受ける。

所謂「持明院統」の祖としても知られ、同母弟の亀山天皇が祖の「大覚寺統」とは、父帝の意向で弟に譲位を強いられるなどの経緯から、互いに次代の治天を巡って鋭く対立する立場にあった。この2つの皇統の対立は、やがて両統迭立という不安定な状況、そして14世紀に入ってからの南北朝動乱にも繋がっていくこととなる。


生涯

後嵯峨帝の即位の翌年に、外祖父である太政大臣・西園寺実氏の自邸(今出川邸第)にて誕生し、それから間もなく立太子された。寛元4年(1246年)、数え4歳にして父より譲位され、第89代天皇として即位。その治世は12年に及んだが、在位中は依然として健在な後嵯峨上皇が一貫して院政を敷く状況にあり、後深草帝が直接政務を見ることはなかった。


鎌倉幕府からの協力も得て、政治的な安定が図られていた後嵯峨上皇の院政期であったが、その安定を崩すきっかけを生んだのもまた、他ならぬ上皇その人であった。

それは正元元年(1259年)、後深草帝が瘧を患ったことにより、弟の恒仁親王に譲位を余儀なくされたことに端を発する。この当時、後深草帝にまだ皇子はなく、恒仁親王が天皇に即位することはそこまで不自然なことではなかったが、恒仁改め亀山帝が兄である後深草帝を差し置き、上皇や母の姞子からの寵愛を受けていたことは、その後の兄弟間の関係、ひいては治天を巡る対立にも暗い影を差すこととなるのである。

さらに文永5年(1268年)、亀山帝の皇子である世仁親王が立太子されたこともまた、後深草上皇にさらなる不満を募らせる格好となった。世仁親王はこの時まだ生後8ヶ月に過ぎず、同じく年少ながらも後深草上皇の皇子である熈仁親王よりも年下であったが、にもかかわらず立太子されたのにはまたしても後嵯峨上皇の意向が働いたと見られており、この動きは実質的に後深草上皇の子孫が皇位継承の道をほぼ絶たれたと言っても同然のものであった。


後深草上皇と亀山帝の対立は、文永9年(1272年)の後嵯峨法皇の崩御を機にいよいよ本格化していくこととなる。実は後嵯峨院は崩御の際にも、次代の治天と皇位の決定権を鎌倉幕府に委任する旨を示しており、これを受けて後深草上皇と亀山帝の双方から、次代の治天がどちらにあるのかを巡っての訴訟が幕府に持ち込まれたのである。

この事態に困惑した幕府は、上皇と帝の生母である大宮院に後嵯峨院の真意を諮問することとなるのだが、その大宮院が後嵯峨院と同様に亀山帝を寵愛していたことは前述の通りであり、「院の真意は亀山帝の親政にあり」と彼女が返答に及ぶのも当然のことであった。

この返答により、後嵯峨院亡き後の治天は亀山帝に移ることとなり、その亀山帝は文永11年(1274年)に未だ8歳の世仁親王(後宇多天皇)に譲位、ここに亀山上皇による院政が開始されることとなる。

・・・が、これで万事丸く収まるはずもなく、後深草上皇は太上天皇の号を返上し出家する旨を表明。裁定に対する不服を改めて示したのである。幕府もこれを受けて、関東申次西園寺実兼との折衝の末に、熈仁親王を亀山上皇の猶子とした上で、後宇多帝の皇太子とすることが決められた。幕府執権の北条時宗が後深草上皇の立場に同情的であったことに加え、西園寺実兼も後深草上皇と関係が深かったことも、この決定への追い風となったと考えられている。

後深草上皇の皇統と、亀山上皇の皇統の両方から交互に天皇を出すという、「両統迭立」の構図は事実上ここから始まったと言えよう。


その後も後深草上皇側による、熈仁親王への皇位継承に向けた働きかけは継続されており、さらに弘安8年(1285年)、亀山上皇とも繋がりのあった安達泰盛霜月騒動で討たれたことは、亀山上皇の院政に深刻な動揺を与えることとなった。結果、その翌々年の弘安10年(1287年)10月、幕府からの申し入れもあって後宇多帝は伏見天皇(熈仁親王)に譲位する運びとなり、ここに後深草上皇は治天の君として院政を執り行うという、長年の悲願を果たしたのであった。

後深草上皇の公式な形での院政は、正応3年(1290年)に出家するまでのわずか2年余りの期間に留まっているが、その後も後深草院は政治への関与を続けるなど、事実上院政が継続された状態にあり、さらに出家の前年には自身の第六皇子である久明親王を、幕府将軍として鎌倉に下向させるなど、持明院統に優位な体勢の確立に努めた。

嘉元2年(1304年)、宝算62にて冷泉富小路殿で崩御。生前の院の意向に基づき、深草北陵(現・京都府京都市伏見区)に葬られた。


皇統

・貴子内親王

・皇女

・姈子内親王

・熈仁親王(第92代・伏見天皇

・性仁法親王

・久子内親王

・媖子内親王

・常仁親王

・幸仁親王

・行覚法親王

久明親王鎌倉幕府8代将軍

・増覚法親王

・永子内親王

・深性法親王

・恒助法親王

  • 宮人:後深草院二条 ー 源雅忠の娘

・皇子

  • 不詳

・皇子


関連タグ

天皇 鎌倉時代 歴代の天皇 持明院統


皇位

第88代第89代第90代
後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇

生 没:寛元元年6月10日(1243年6月28日) - 嘉元2年7月16日(1304年8月17日)

 諱 :久仁

追 号:後深草院


概要

第88代・後嵯峨天皇と、その中宮の西園寺姞子(大宮院、西園寺実氏の娘)との間に第三皇子として生を受ける。

所謂「持明院統」の祖としても知られ、同母弟の亀山天皇が祖の「大覚寺統」とは、父帝の意向で弟に譲位を強いられるなどの経緯から、互いに次代の治天を巡って鋭く対立する立場にあった。この2つの皇統の対立は、やがて両統迭立という不安定な状況、そして14世紀に入ってからの南北朝動乱にも繋がっていくこととなる。


生涯

後嵯峨帝の即位の翌年に、外祖父である太政大臣・西園寺実氏の自邸(今出川邸第)にて誕生し、それから間もなく立太子された。寛元4年(1246年)、数え4歳にして父より譲位され、第89代天皇として即位。その治世は12年に及んだが、在位中は依然として健在な後嵯峨上皇が一貫して院政を敷く状況にあり、後深草帝が直接政務を見ることはなかった。


鎌倉幕府からの協力も得て、政治的な安定が図られていた後嵯峨上皇の院政期であったが、その安定を崩すきっかけを生んだのもまた、他ならぬ上皇その人であった。

それは正元元年(1259年)、後深草帝が瘧を患ったことにより、弟の恒仁親王に譲位を余儀なくされたことに端を発する。この当時、後深草帝にまだ皇子はなく、恒仁親王が天皇に即位することはそこまで不自然なことではなかったが、恒仁改め亀山帝が兄である後深草帝を差し置き、上皇や母の姞子からの寵愛を受けていたことは、その後の兄弟間の関係、ひいては治天を巡る対立にも暗い影を差すこととなるのである。

さらに文永5年(1268年)、亀山帝の皇子である世仁親王が立太子されたこともまた、後深草上皇にさらなる不満を募らせる格好となった。世仁親王はこの時まだ生後8ヶ月に過ぎず、同じく年少ながらも後深草上皇の皇子である熈仁親王よりも年下であったが、にもかかわらず立太子されたのにはまたしても後嵯峨上皇の意向が働いたと見られており、この動きは実質的に後深草上皇の子孫が皇位継承の道をほぼ絶たれたと言っても同然のものであった。


後深草上皇と亀山帝の対立は、文永9年(1272年)の後嵯峨法皇の崩御を機にいよいよ本格化していくこととなる。実は後嵯峨院は崩御の際にも、次代の治天と皇位の決定権を鎌倉幕府に委任する旨を示しており、これを受けて後深草上皇と亀山帝の双方から、次代の治天がどちらにあるのかを巡っての訴訟が幕府に持ち込まれたのである。

この事態に困惑した幕府は、上皇と帝の生母である大宮院に後嵯峨院の真意を諮問することとなるのだが、その大宮院が後嵯峨院と同様に亀山帝を寵愛していたことは前述の通りであり、「院の真意は亀山帝の親政にあり」と彼女が返答に及ぶのも当然のことであった。

この返答により、後嵯峨院亡き後の治天は亀山帝に移ることとなり、その亀山帝は文永11年(1274年)に未だ8歳の世仁親王(後宇多天皇)に譲位、ここに亀山上皇による院政が開始されることとなる。

・・・が、これで万事丸く収まるはずもなく、後深草上皇は太上天皇の号を返上し出家する旨を表明。裁定に対する不服を改めて示したのである。幕府もこれを受けて、関東申次西園寺実兼との折衝の末に、熈仁親王を亀山上皇の猶子とした上で、後宇多帝の皇太子とすることが決められた。幕府執権の北条時宗が後深草上皇の立場に同情的であったことに加え、西園寺実兼も後深草上皇と関係が深かったことも、この決定への追い風となったと考えられている。

後深草上皇の皇統と、亀山上皇の皇統の両方から交互に天皇を出すという、「両統迭立」の構図は事実上ここから始まったと言えよう。


その後も後深草上皇側による、熈仁親王への皇位継承に向けた働きかけは継続されており、さらに弘安8年(1285年)、亀山上皇とも繋がりのあった安達泰盛霜月騒動で討たれたことは、亀山上皇の院政に深刻な動揺を与えることとなった。結果、その翌々年の弘安10年(1287年)10月、幕府からの申し入れもあって後宇多帝は伏見天皇(熈仁親王)に譲位する運びとなり、ここに後深草上皇は治天の君として院政を執り行うという、長年の悲願を果たしたのであった。

後深草上皇の公式な形での院政は、正応3年(1290年)に出家するまでのわずか2年余りの期間に留まっているが、その後も後深草院は政治への関与を続けるなど、事実上院政が継続された状態にあり、さらに出家の前年には自身の第六皇子である久明親王を、幕府将軍として鎌倉に下向させるなど、持明院統に優位な体勢の確立に努めた。

嘉元2年(1304年)、宝算62にて冷泉富小路殿で崩御。生前の院の意向に基づき、深草北陵(現・京都府京都市伏見区)に葬られた。


皇統

・貴子内親王

・皇女

・姈子内親王

・熈仁親王(第92代・伏見天皇

・性仁法親王

・久子内親王

・媖子内親王

・常仁親王

・幸仁親王

・行覚法親王

久明親王鎌倉幕府8代将軍

・増覚法親王

・永子内親王

・深性法親王

・恒助法親王

  • 宮人:後深草院二条 ー 源雅忠の娘

・皇子

  • 不詳

・皇子


関連タグ

天皇 鎌倉時代 歴代の天皇 持明院統


皇位

第88代第89代第90代
後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇

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