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久明親王

ひさあきしんのう

鎌倉幕府・第8代征夷大将軍。
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概要

生没年 建治2年(1276年)9月11日~嘉暦3年(1328年)10月14日
 第89代・後深草天皇(持明院統初代)の第六皇子として生まれ、兄に後に第92代天皇・伏見天皇となる煕仁親王、子に鎌倉幕府最後の将軍となる守邦親王、源氏賜姓を受ける久良王らがいる。

持明院統と大覚寺統

 寛元4年(1246年)、在位4年で第二皇子・久仁親王(後深草天皇)に譲位した第88代・後嵯峨天皇は、正元元年に第三皇子・恒仁親王(第90代・亀山天皇)に譲位するよう天皇に促した。皇位は後嵯峨院の存命中に亀山天皇の第二皇子・世仁親王に受け継がれることが定められ、文永11年(1274年)、わずか8歳にして親王は即位した(第91代・後宇多天皇)。
 このことに不満をもった後深草上皇は自身の尊号(院号)を辞退する旨を幕府に申し出た。事態に驚いた幕府は次期天皇に上皇の第一皇子をつけることを約束し、建治元年(1275年)11月、煕仁親王(後深草上皇の第二皇子)を皇太子とし、親王は、弘安10年(1287年)10月、即位した(伏見天皇)。一方で皇位を追われる形となった亀山天皇の系統(大覚寺統)は持明院統と対立、文保元年(1317年)、幕府の仲介によって皇位を交代で継承することが定められた。

将軍就任、鎌倉下向

 正応2年(1289年)10月、親王宣下・元服・将軍宣下がほぼ同時期に下され、鎌倉に下向、なお、同年4月には異母兄・伏見天皇の第一皇子・胤仁親王(第92代・後伏見天皇)が立太子し、持明院統は皇位・皇太子・征夷大将軍職を独占することとなった。
 永仁3年(1295年)、前将軍・惟康親王の娘・中御所と婚姻、彼女は、正安3年(1301年)、鎌倉幕府・最後の将軍・守邦親王を産むが、徳治元年(1306年)7月、流産により死去した。
 久明親王は和歌の大家として知られ、鎌倉での生活も儀礼的なもの、和歌の会を催すなど、幕政に深く関与した形跡はない。

嘉元の乱

 嘉元3年(1305年)4月23日、得宗北条貞時執権北条師時のもとで連署を務めていた北条時村が「将軍・久明親王」の命令であるとして内管領北条宗方に討たれる事件が起きたが、親王にその意思はないことは明白であり、黒幕は得宗・北条貞時であるとされ、やむなく北条貞時は北条宗方を追討するべく追手を差し向け、これを討ち取った(嘉元の乱)。

将軍更迭、そして帰洛

 延慶元年(1308年)7月、突如、将軍職を更迭され、京に帰洛。以後、嘉暦3年(1328年)10月に亡くなるまで幕府と親王との関係は穏やかであったと伝えられている。

関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 征夷大将軍 執権 得宗 北条貞時

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