生没年 建治2年(1276年)9月11日~嘉暦3年(1328年)10月14日
第89代・後深草天皇(持明院統初代)の第六皇子として生まれ、兄に後に第92代天皇・伏見天皇となる煕仁親王、子に鎌倉幕府最後の将軍となる守邦親王、源氏賜姓を受ける久良王らがいる。
将軍就任、鎌倉下向
正応2年(1289年)10月、親王宣下・元服・将軍宣下がほぼ同時期に下され鎌倉に下向。なお同年4月には異母兄・伏見天皇の第一皇子・胤仁親王(第92代・後伏見天皇)が立太子し、持明院統は皇位・皇太子・征夷大将軍職を独占することとなった。
永仁3年(1295年)、前将軍・惟康親王の娘・中御所と婚姻。彼女は正安3年(1301年)、鎌倉幕府・最後の将軍守邦親王を産むが、徳治元年(1306年)7月流産により死去した。
久明親王は和歌の大家として知られ、鎌倉での生活も儀礼的なものや和歌の会を催すなど、幕政に深く関与した形跡はない。
嘉元の乱
嘉元3年(1305年)4月23日、得宗・北条貞時、執権・北条師時のもとで連署を務めていた北条時村が「将軍・久明親王」の命令であるとして内管領・北条宗方に討たれる事件が起きたが、親王にその意思はないことは明白であり、黒幕は得宗・北条貞時であるとされ、やむなく北条貞時は北条宗方を追討するべく追手を差し向け、これを討ち取った(嘉元の乱)。
将軍更迭、そして帰洛
延慶元年(1308年)7月、突如将軍職を更迭され京に帰洛。以後嘉暦3年(1328年)10月に亡くなるまで幕府と親王との関係は穏やかであったと伝えられている。