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桂太郎

かつらたろう

(弘化4年11月28日~大正2年10月10日)  第11・13・15代内閣総理大臣。陸軍大将。従一位大勲位。公爵。

長州藩上仕の家に生まれた桂は、長じて騎兵隊に属し、戊辰戦争に従軍、維新後に再度ドイツに留学して軍事学を修め、西南戦争後に帰国して、日本の軍制をドイツ式に転換させる上に重要な役割を果たした。

明治31年に陸軍大臣となり、同年から伊藤博文内閣以降の各内閣の陸相を務め、徐々に政治家として大きな役割を担うようになっていった。

明治43年6月、それまで明治元勲のみが内閣を組織してきた後を受けて、明治維新後の軍人・軍政家として育った桂が第一次内閣を組織した時、世間では「二流内閣」「小山県内閣」と評された。
桂は山県有朋の超然主義を継承しつつ、日露戦争を完遂させた。
国内経済界においては第二次産業革命が進行している時期であった。

その後、明治末年まで山形閥の上にあぐらをかきながら西園寺公望内閣と交替して政権を取る、いわゆる桂園時代が続いた。

第一次桂内閣の後を受けて立った第一次西園寺内閣が日露戦争後の処理にあたり、巨額の国債とむ賠償にもかかわらず、軍備拡張、鉄道国有化などの積極策をとり、財政困難に陥って倒れると、再び政権を得た桂は、韓国併合政策、社会労働運動に対する弾圧政策をとり、明治43年の大逆事件後には「社会」の字が全く抹殺されるに至った。
翌年に内閣は総辞職し、桂は内大臣侍従長となった。

山県をバックに政党との妥協をはかりながら政治的影響力を浸透させていくやり方は「ニコポン主義」と評され、巧みな温顔による懐柔政策をとっていた。

明治44年に成立した第二次西園寺内閣は、財政窮乏を打開するための積極政策をとろうとしたが、政党の力の伸長を恐れた軍閥官僚は、大陸での不安な情勢に対処するため、懸案の二個師団の増設を強硬に主張し、これが拒絶されると当時の陸相・上原勇作は単独辞職して(大正元年)、第二次西園寺内閣は瓦解した。

その後、大正天皇の詔勅により三たび桂は組閣したが、憲政擁護運動の高まりによってわずか53日で辞職せざるを得なかった。
これが尾崎行雄犬養毅による第一次護憲運動の成果であり、民衆の力による内閣総辞職の初めであった。
ここにいわゆる大正政変が始まることになる。

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