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桂太郎

かつらたろう

(弘化4年11月28日~大正2年10月10日)  明治時代の軍人、内閣総理大臣(第11・13・15代)。陸軍大将。従一位大勲位。公爵。
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生涯編集


生誕~明治維新まで編集

1848年4月18日、長州藩上士の家に生まれる。この家は主家である毛利氏の先祖大江広元の血を同じく継いでおり、毛利元就の代には桂元澄を輩出し重臣として従っていた。

初め毛利家の小姓に抜擢されると、1866年(慶応2年)第二次長州征伐に志願し戦う。後1868年(明治元年)戊辰戦争に従軍、ここで大隊長や参謀添役を務め後方支援に従事した後、秋田戦争では司令官になる。ここでは奥羽越列藩同盟の成立を許すなどふがいなさを見せたものの久保田藩や新庄藩を新政府側に帰順させる活躍を見せる。


軍人、陸軍大臣時代編集

1870年(明治3年)ドイツに留学して軍事学を修め、1877年(明治西南戦争後に帰国すると、伊藤博文1内閣が当時行っていた軍備削減政策に反対するなど軍政の分野で存在感を高め、日本の軍制をドイツ式に転換させる上に重要な役割を果たした。

1894年(明治27年)に勃発した日清戦争では陸軍第3師団長として出征する。戦後台湾総督を務めた後、1898年(明治31年)第三次伊藤博文内閣の陸軍大臣となり、以降の各内閣の陸相を務める。第二次山縣有朋内閣では参謀格となり、義和団事件での介入を主導するなど山縣閥の政治家として大きな役割を担うようになっていった。


第一次桂太郎内閣編集

1901年(明治34年)6月、それまで明治元勲のみが内閣を組織してきた後を受けて、明治維新後の軍人・軍政家として育った桂に組閣の大命が下る。しかし世間では初め「二流内閣」「小山県内閣」と評された。

桂は山縣有朋の超然主義を継承しつつ、当時悪化しつつあったロシアとの関係を見据え、1902年(明治35年)に伊藤の反対を抑えて日英同盟を結んで国際社会における日本の存在感を高めた。そして1904年(明治37年)についに勃発した日露戦争を首相として完遂させ自信を深める。しかしポーツマス条約で賠償金をとれなかったことに臣民が怒り、日比谷焼き討ち事件が発生してしまった。


桂園時代編集

1906年(明治39年)、政権を立憲政友会総裁の西園寺公望に譲る。しかし明治末年まで山県閥の上にあぐらをかきながら西園寺公望内閣と交替して政権を取り、いわゆる桂園時代が続いた。山縣をバックに政党との妥協をはかりながら政治的影響力を浸透させていくやり方は「ニコポン主義」と評され、巧みな温顔による懐柔政策をとっていた。それとともに桂はこのような行動をとることで、旧来の元勲政治を刷新し、自立を図っていた。

第二次桂太郎内閣が成立すると、同じ政友会の原敬とは対立と「情意投合」を繰り返しつつ、西園寺公望とは一貫して協調し、韓国併合関税自主権の回復、大逆事件による社会主義者の弾圧を達成し業績を積み上げる。

しかしそれは山縣との間に、微妙な亀裂を生じさせることになった。桂の「自立」への野望は「桂新党」構想に繋がっていくが、山縣は桂新党を許さなかった。そうして山縣は何とかして桂を引退させようと行動し始める。


政権闘争、そして没落と死編集

1911年(明治44年)第二次桂太郎内閣が総辞職した後、桂は内大臣侍従長となった。これは前述の通り山縣の差し金で行われたもので、病状の重い明治天皇の次、「新帝輔弼」を表向きに桂を実質的な政界引退に追い込むことに成功する。

変わって成立した第二次西園寺内閣は、財政窮乏を打開するための積極政策をとろうとしたが、政党の力の伸長を恐れた軍閥官僚は、大陸での不安な情勢に対処するため、懸案の二個師団の増設を強硬に主張し、これが拒絶されると当時の陸相・上原勇作は単独辞職して1912年(大正元年)、第二次西園寺内閣は瓦解した。

西園寺公望の次の内閣に推されたのは、何とまたしても桂太郎であった。というのも二個軍団増設問題で、裏で大きく引っ掻き回していたのは実は桂だったからである。桂は侍従長の権限で元老と西園寺内閣との連絡を混乱させただの条件闘争だったこの問題をエスカレートさせ、上原の辞職によって西園寺内閣を瓦解させたのである。そうして元老会議で桂を推挙させ、見事に政界へ返り咲いたのである。

大正天皇の詔勅により三たび桂は組閣した。ここまでは順調だったものの、今度は日本の臣民たちが立ちはだかる。内大臣侍従長という宮中職に就いている人物が、臣民の代表者である総理大臣に就くことが大日本帝国憲法の趣旨に違反している、そしてこのような人選は山縣と桂の陰謀であるという批判が高まり、これが憲政擁護運動に繋がったことでわずか62日で辞職に追い込まれた。

これが尾崎行雄犬養毅による第一次護憲運動の成果であり、民衆の力による内閣総辞職の初めであった。いわゆる大正政変である。

大正政変ののち、桂はすぐに体調を崩した。6月には治療のため葉山や鎌倉を転地するが、7月になると小康状態となり東京へ戻った。しかし10月に脳血栓で倒れ、10月10日、死去する。享年67歳。

葬儀には政界の重鎮だけでなく、大正政変や日比谷焼き討ち事件で大いに対立した臣民たちが駆けつけ、8千人もの人々が最終的に参列したという。


余談編集

・ニコポン宰相に由来した「ニコホン綿」が製造されている。

・桂の思い描いた「桂新党」はその後立憲同志会へと繋がり、大正デモクラシーで活躍している。


関連タグ編集

桂園時代

明治時代の内閣総理大臣


山縣有朋・・・上司にしてライバル

後藤新平・・・政権時代のブレーン

拓殖大学・・・前身の台湾協会学校を桂が創立。


桂言葉SchoolDays):名前の元ネタ。

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