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近衛文麿

このえふみまろ

(明治24年10月12日~昭和20年12月16日)。第34・38・39代内閣総理大臣。勲一等。公爵。共産主義者。
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概要編集

第34・38・39代内閣総理大臣。貴族出身。日中戦争開戦時の首相を務めた。戦後A級戦犯とされ自殺した。大政翼賛会初代会長。


経歴編集

明治24年、近衛篤麿公爵の長男として東京に生まれた。 第一高等学校に在学中、社会科学に興味を持ち、東京大学哲学科を経て、のち京都大学法科にて共産主義者の河上肇に師事する。


大正6年に卒業後内務省に入り、大正8年にベルサイユ講和会議に出席したのがきっかけで、西園寺公望に認められた。


また貴族院議員となり、西園寺の後継者として誰もが認めるようになっていった。 昭和6年に貴族院副議長、昭和8年には早くも議長に就任した。 時あたかも満洲事変が勃発するなど、昭和初期の動乱がまさに始まろうとする時期であったが、この時にあたって軍閥官僚政党三者の間にあって、彼の言う「空漠たる声望」により次第に政治の中枢へと駆り出されていった。

昭和11年の二・二六事件後の組閣を元老西園寺から勧められたが固辞し、翌12年、林銑十郎内閣の瓦解後、元老重臣に推されてついに内閣総理大臣となった。


第一次近衛内閣が成立した直後、盧溝橋事件が起こり、それを支那事変にまで拡大し、中国の抗戦に遭って泥沼化していった。 その後平沼騏一郎阿部信行米内光政による三内閣を経たが、第二次世界大戦を迎えた難しい情勢にあって、いずれも短期間で終わった。


昭和15年、軍部の要望等により第二次近衛内閣を組織した。 ドイツに呼応して、東南アジアにおけるイギリスフランスオランダの植民地を解放しようとする大東亜共栄圏設立をスローガンとして発足。 国内では、一国一党を目指す大政翼賛会を結成し、国外では日本ドイツイタリアの三国同盟を締結、対米関係を緊張関係にまで至らせた。


昭和16年にいったん総辞職の後、第三次近衛内閣を組織。 しかし東条英機陸軍大臣に日米開戦の責任を押し付けるような形で10月に退陣。 その後日本は大東亜戦争を起こすことになる。


このような重要時期における数々の国是決定は、育ちの良い「お坊ちゃま育ち」であるがゆえの粘りのなさ、人の良さが悪い方向に出たものであるともいえる。近衛のそういった性格は政治の場において気弱、優柔不断、無責任というべきものへと容易に変貌した。近衛を首相に推挙した西園寺公望は、彼を首相に推薦したことを最後まで後悔していたという。


終戦後しばらく、近衛は内大臣御用掛として憲法改正に専念。 英国風の立憲君主国を目指したが、連合国から日本を戦争に導いた責任を追及されA級戦犯の逮捕令を受けるに及ぶ。


昭和20年12月16日、萩外荘で服毒自殺。享年55。


主な評価編集

右翼団体は東條英機らを支持する派閥が多く、プライドの高いとされる近衛こそが真の戦犯なのではないのかと言われ続けている。一方で左翼団体からは非難されることはあるものの、A級戦犯としてではなく、戦争指導者的な位置づけで非難されやすい。また、これらに際しては昭和天皇の評価が極めて低かったことなども影響していると思われる。

終戦工作などに置いて東久邇宮内閣への貢献があったにせよ、生前の首相になるまでの各方面からの嘱望から一転し、死後の政治家としての評価はどの方面からも非常に低く、酷評されている。

弟の秀麿からも「兄は政治家に全く向いていなかった。学者や評論家にでもなっていればよかったのに」と言われている。


余談編集

五摂家筆頭当主として、華族出身の政治家としてもとりわけ別格の扱いを受けた。昭和天皇の前でも足組みが許されるほどであったという。しかし昭和天皇は近衛に対して極めて厳しく当たり、死に際して「近衛は弱いね」と漏らされたという。一方で木戸幸一や東條英機のような事務的に物事をこなす人が好きであらせられたこともあり、近衛のような意志の弱い人間のことを毛嫌いしていたのだろう。


近衛が自殺する直前に吉田茂ダグラス・マッカーサーへ訪問し、近衛の処遇について話し合ったとされる。この時マッカーサーからは「近衛は逮捕せずに自宅軟禁とする」「病気で出頭を延期することは可能」との文言を得ていたとされる。その後近衛の死を聞いた吉田は「自分が近衛に逢って伝えていたら」と悔やんでいた。但しマッカーサーに逮捕起訴を判定する権限はなく、また連合国側の意向としては「武官だけでなく文官のうち少なくとも誰か1人を極刑にしたい」であったことから、裁判になった場合は近衛または松岡洋右のどちらか(または両方)が死刑判決を受けていただろうとされている。なお、松岡も判決を受ける前に死去したことから、スケープゴートとして廣田弘毅が死刑判決を受けたのではとされている。

親族編集

父:近衛篤麿

母:近衛衍子(前田慶寧の五女)

継母:近衛貞子(前田慶寧の六女)

異母妹:大山武子(大山柏の妻)

異母弟:近衛秀麿

異母弟:近衛直麿

異母弟:水谷川忠麿水谷川忠起の養子)


妻:近衛千代子(毛利高範の次女)

長男:近衛文隆

長女:野口昭子(初め島津忠秀の妻、後に駆け落ちして野口晴哉の妻)

次女:細川温子(細川護貞の妻)

次男:近衛通隆


孫:東隆明(文隆の庶子)

孫:島津修久(昭子の子)

孫:細川護煕(温子の長男)

孫:近衛忠煇(温子の次男)


関連タグ編集

政治家 近衛家 内閣総理大臣 太平洋戦争 A級戦犯 細川護煕 共産主義 ソ連

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