近衛秀麿
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このえひでまろ
近衛秀麿とは日本の子爵、指揮者、作曲家。
明治31年(1898年)11月18日に近衛篤麿の次男として誕生した。最初は飛行機に興味があったがその後音楽に興味を持ちバイオリンを勉強した。その後作曲家の山田耕筰がドイツから帰国し耕筰から作曲を学ぶ、その後オーケストラの道に進み大正12年(1923年)にヨーロッパに渡って指揮法を学ぶ。大正13年(1924年)に帰国し翌年の大正14年(1925年)に山田耕筰と共に日本交響楽協会を設立した。
第二次大戦時は欧州で指揮者として活動しており終戦もそこで迎えた。兄の文麿と対照的に気の強い性格で、大戦時にユダヤ人の知人を匿ってナチスに睨まれるなど立場を悪くした際には兄の文麿から「ドイツ大使館から文句を言われている。首相である兄の顔を立ててくれ」と言われ「弟が苦しんでいるのに!」と憤慨し終戦まで連絡を絶った。昭和49年(1974年)、6月2日に死去。
音楽的才能にあふれる一方で女性遍歴は非常に放埒な人物であり、文麿の弟だったこともあって戦後、連合軍に拘留された際の尋問で、子供の数を聞かれた際に暫し沈黙してしまった後「(思い出して)今、数えているので(待って欲しい)」と言い、取調官を唖然とさせたという。
晩年になっても女癖の悪さは治らず、見かねた友人で指揮者でもある朝比奈隆に「もう(女遊びは)御止めになったほうがいいのでは」と言われた時、秀麿は「でも相手だって喜んでおりますよ!」と放言、朝比奈を閉口させた。
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すべて見る『アンドロギュノスと愚直なる漢』
昔日の小さな紅い花。そこに込めた想いはそのままに残っている。秀麿は誰より愛した兄、文麿のことを永遠に愛し続ける。愚直なまでに・・・。それが、幼い頃に抱いた想いの証だった。11,207文字pixiv小説作品『ひとり決めの約束』
第二次大戦後の日本。国難を背負った近衛文麿は木戸幸一による工作で戦犯とされた。 必ず自決すると兄の気性をを知っている秀麿は自決を阻止しようとするが・・・ 兄、文麿を心から愛した秀麿が決意したことは。 先の大戦の見直しがいろいろありますね。新たな事実も発掘されています。それをもとに書いた作品です。 御霊安らかにあることを願います。15,624文字pixiv小説作品