概要
平安時代後期の人物。女性。
第74代鳥羽天皇の中宮で、第75代崇徳・第77代後白河両帝の生母。待賢門院の院号を賜る。
正二位権大納言藤原公実の娘で、母は堀河・鳥羽両帝の乳母・光子。
父が早くに亡くなったため白河法皇が引き取り養育、孫の鳥羽天皇に入内させた。
養父白河法皇との関係が取りざたされ、第1皇子の顕仁親王(→崇徳天皇・崇徳上皇)は鳥羽ではなく白河の子だとの風聞まで流れた。
一方で、近年の新説として璋子は白河法皇が宮廷を掌握するために送り込んだ一種の「スパイ」だとする見方もある( 樋口健太郎「『保安元年の政変』と鳥羽天皇の後宮」『中世王権の形成と摂関家』)。これは、かつて璋子の男性問題を理由に婚約を断った関白藤原忠実が失脚する直前に璋子と白河法皇が密会していたことによる。従来はこれを白河法皇と璋子との情交のように解されてきたが、新説では璋子が白河法皇に鳥羽天皇や忠実ら高官の動きを密告していたのだとしている。
このため、白河法皇が崩御し鳥羽上皇が院政を開くとその寵愛は側室の藤原得子(美福門院)に遷っていったともいう。得子が生んだ近衛天皇が即位したのがその根拠である。璋子は1142年に出家、1145年に逝去した(享年数え45)。もっとも、院政期の治天の君たちが女院を伴って頻繁に行っていた重要行事・熊野詣を手掛かりにすると、別の実像が見えてくるかもしれない。小山靖憲によれば、鳥羽上皇は平均して1年5ヶ月に一度、熊野詣でを行っていた。その中でも、1133年に得子が入内したのちも、1140年に至るまで鳥羽上皇の熊野詣に同道していたのは璋子であるという。得子が同道するようになるのはその死後である1149年以降であり、璋子が出家~死去した数年間の鳥羽上皇は、一度崇徳上皇を伴った以外は単独で熊野に向かっている(小山靖憲「熊野詣の中世史」『熊野古道』)。
璋子の死に際して、不仲であったはずの鳥羽上皇は隠棲先に駆けつけ、磬という仏具を打ち鳴らして大声で泣いたという(『台記』)。璋子の女房たちと交流があった西行法師も「尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 花と散りにし 君が行方を(いくら尋ねても、風の便りにすら聞けそうにない、花のように散ってしまった貴方の行方は)」と歌ってその死を惜しんだ。美しく人々に愛された女性であったとは言えそうだ。没後、転変を経て所生の第4皇子・雅仁親王が後白河天皇として即位し、璋子の血統は現在の皇室まで続くこととなる。
なお、雅仁親王と同じく今様(当時の流行歌のこと)を好み、神崎のかねという歌手を重用していた。これを今様と聞いては黙っていられない雅仁親王が、母に請うて毎晩連れ出した。これには璋子もたまりかねて、「あんまりじゃないの。わたしだって聞きたいのよ」と一晩交代でかねの歌を聞けるようにしたとのこと(『梁塵秘抄口伝集』)。後白河帝の今様狂いは遺伝(もしくは教育の成果)だったのか。