概要
平安時代後期の人物。鳥羽上皇の女御として体仁親王(後の近衛天皇)を生み、近衛天皇の即位によって国母として皇后の地位を得た。後に美福門院となる。
父は権中納言藤原長実。「並の人間に嫁がせるわけにはゆかぬ(『今鏡』)」と父の愛を一身に受けて育つが長承2年(1133年)に死別し、翌年に鳥羽上皇の寵愛を受けることとなる。そして産まれた体仁親王が崇徳天皇の皇太子となることで中宮藤原璋子以上の権勢を得る。さらに近衛天皇の即位後に璋子は得子呪詛事件によって出家に追い込まれる。かくして得子は揺るぎない権力を手にした。
近衛天皇は若くして崩御するが、得子は養子に英邁と世評の高い守仁親王(後の二条天皇)を迎えており、その父雅仁親王が中継ぎの後白河天皇として即位することで権勢を維持した。得子は近衛天皇の死が藤原頼長の呪詛によるものと鳥羽上皇に讒言し、頼長は内覧の地位を追われて失脚した。
鳥羽上皇の死に乗じて崇徳上皇と藤原頼長が起こした保元の乱に後白河天皇方が勝利すると、得子は天皇の側近信西と協力して二条天皇の即位を実現する。二条天皇の政治においても重要な後援者として睨みを利かせていたが、永暦元年(1160年)に死去する。
かくして政治的にも強い影響力を発揮して院政期皇室の混乱を鎮めてきた女性であった得子は、同時にそのあまりに政治的影響力を発揮しすぎた面について、保元・平治の乱の原因になったのではないかといった批判も見られる。こういった観点から、室町時代の御伽草子に於いて鳥羽上皇を惑わした愛妾玉藻前のモデルであるという俗説もある。